酸素スプレー

小島希里

先月末、東京で3日間にわたって開かれたコラボ・シアター・フェスティバルに、二日間通った。障害のある人たちとアーティストが表現の可能性を探求するという試み。ほかのどこにもない、ここにしかない音楽や芝居と出会えて、興奮した。以下の四つのグループの発表は、一カ月たった今も心に残ってはなれない。

●神戸 音遊びの会「音の公園」の何曲目かの曲
たどたどしい、足音のように、ドラムの音が前へと進む。歩きはじめたかと思うと、立ち止まる。ゆるゆる一歩、二歩、進み、また、たちどまるかと思うと、少し加速がつきだす。そこに、管楽器が一本、よぼよぼのおじいさんのような足取りで、弱々しく音を重ねる。別の管楽器が二本、そっけなく加わり、長く長く同じ音を吹き鳴らす。
何かが始まるときの、小さな興奮があたりに漣を立てる。たぶん、これは始まりの音楽なんだな。いや、もしかしたら、音楽の始まりなのかも。
ドラムセットを叩いていたのは、知的な障害をもつ十代前半ぐらいの年齢のこども、残りの管楽器奏者たちはプロの音楽家たち。

●大阪 ほうきぼしプロジェクト Live「こまいぬにほうきぼし」
でこぼこした発音の朗読に、観客は身構える。「ぼく」、のひとことに、全力が注がれる。
ぼぼぼぼ・・・・、ぼの音を観客の前に宙ぶらりんにしたまま、朗読者はからだを強ばらせる。静寂が深まるにつれ、観客のからだも強ばっていく。この人、あきらめちゃうんじゃないか、とわたしは不安になる。ええー、これにずっと突き合わされるのかよ、とも不安になる。とその瞬間、「く」の音が追いつく。
朗読が終わり、同じ詩を、ベースに合わせて、彼が歌う。観客が、大きな笑い声をとどろかせる。さっきまでの、しどろもどろは、いったいどこにいったんだ? さっきまで、彼をどもらせ、強ばらせ、喉に石ころでもつまったんじゃないかとみんなを不安に陥れていたものは、いったいどこにいったんだ? ぼく、とすらすんなり言えなかった同じ人が、ベースのリズムに合わせて、気持ちよさそうに歌いつづける。

車椅子の朗読者がずらっと並び、後ろにヘルパーたちが一人一人、座っている。詩の朗読と酸素スプレーが酸素を吐き出す音が、わけ隔てなくマイクを通じて拡大され、観客の耳に届く。一人ずつ詩を読み、ベース一本で歌を歌うだけの素朴なスタイルに生かされて、舞台の上にあるものがすべてくっきりと見渡せる。これ以上のことも、これ以下のこともない、これだけがしたいんだ、という意志が、すべてのやり方に貫かれている。すてきだ。

●奈良 アクターズスクールくらっぷ「ファウスト」
ファウスト博士を演じるのは4人の、いや、5人だったかな、若い知的障害者たち。対する悪魔メフィストテレスを演じるのは、この作品を構成・演出した男性、一人。
ファウストたちは、実に、自由に舞台の上を動きまわる。舞台のはじっこを歩いて、観客席を眺め回す人もいれば、まったく動かないで椅子にじっと座っている一人もいる。事前の決まりごととして了解されているのは、たぶん、人一人博士が登場する、悪魔と博士が対立している、一人の博士が歌を歌う、最後に悪魔が倒れたら博士の白衣をかける。あとは即興的なやりとりだけで、寄り道、道草、あと戻りを繰り返しながら、くねくねと進む。ファウスト博士たちは、悪魔に抱きつくかと思えば、そっぽをむくはで、ちっとも悪魔の口車には乗らない。博士たちはやりたい放題、好き勝手、数少ない決め事も危うくなる。悪魔と博士たちとのやりとりはフィクションと現実のあいだを行ったりきたりしながら、演出家と演じ手たちとの支配関係を、「健常者」と「知的障害者」との支配関係を露わにし、ひっかきまわす。もちろん、みているわたしの頭の中も、ぐちゃぐちゃにひっかきまわされた。

●湖西市 手をつなぐ親の会「すべてを越えて」
舞台にぎっしり立ち並んだおおぜいの踊り手たちが、いっせいに舞台の床を踏み鳴らす。踊り手たちは観客席に向かって、ずんずん迫ってくる。衣装の黒や赤の水玉が近づいてどんどん大きく、派手になってくる。見るからに、鍛錬を積んできた体つきのプロのフラメンコ・ダンサーたちと、見るからに障害をもつ人々と、見るからにそっくりでその母親だとわかる女性たち。踏み鳴らし、踏み鳴らし、唱えているのは、「希望」「愛」「夢」といったことば。陳腐な、手垢にまみれたことばづかいと、型にはまりきらない生々しい動きとが、母親たちのたぷたぷした贅肉と、男性ダンサーたちの厳しく背筋を伸ばし叩きならす拍手の音とが、ちぐはぐに絡み合う。けして調和の取れることのないこのちぐはぐさが、この踊りの強烈な力なのだ。くっきりとした動きの型、リズムの型が、踊り手たちを竦ませる抑圧とはならず、はみ出すもの、ねじれたものを際立たせるばねとなっているところが、ほんとうにすばらしい。