仙台ネイティブのつぶやき(43) 魚好きの道

西大立目祥子

 年齢とともに、肉より魚に心惹かれるようになるのはなぜなんだろう。もちろん、こってりよりあっさりという嗜好の変化はあるのだろうけれど、魚は、季節季節店先に並ぶ魚種がつぎつぎと変わっていくことももう一つの大きな理由であるような気がする。若いころの大雑把な皮膚感覚より、いまの方がはるかに微妙な季節のうつろいをからだがとらえている感じがするから。
 売り場に行くと食べたことのない魚があれこれ並んでいて、ああ死ぬまでに一つでも多くの魚を味わいたいと思う。魚好きの道に連なることは、ひそやかなあこがれだ。

 さて、この冬はなかなかにおいしい魚にありつけた。
 冬といえば、まず真鱈。もちろん鱈は鍋が定番だけれど、私はつい身より先に魚卵に目がいってしまう。「鱈の子」とよばれる真鱈の魚卵は、いわゆるタラコ(こちらはスケソウダラの子)よりずっと大きくて黒っぽい薄皮の袋に包まれている。見た目はかなり怖そうな代物だが、これを煮付けるとうまい。仙台では薄皮をはいで炒り煮にする。

 糸こんにゃくを乾煎りして、ちょっと油を回し入れ、そこに鱈の子をどさりと入れて火を通していく。途中、お酒を足して、仕上げは醤油。炊きたてのごはんの上に分厚くのせて海苔をもんでできあがり。淡いピンク色の上のつややかな黒海苔。掘っていくとあらわれる白いごはん。口に入れるとしっとりと旨味を含んだつぶつぶ感。鱈の子どんぶりは冬の醍醐味だ。

 先日、叔母の家に遊びに行ったら、「ちょっと食べてみて」と出されたのは、鱈の子と千切りにした人参の炒り煮だった。「私も鱈の子の炒り煮よくつくるよ」というと、うれしそうな顔をしていった。「あら、これおばあちゃんがよくつくってたの。あんたのお父さんも好きで、それが伝わったのね」鱈の子の料理は祖母の味でもあったのか。  
 食卓によく並ぶものが好きになる。味の好みはそうやって知らぬ間につくられていくのかもしれない。

 うまい魚にありつくために欠かせないのは、いい魚屋との出会いだろう。うれしいことに、この冬はそれがあった。それも宮城県北の山間地、鳴子温泉で。取材で訪ねた菅原魚屋の菅原清さんは、毎日片道80キロを保冷車を走らせ県土を横断して石巻港に魚を仕入れに行くというのだ。
 店の冷ケースには切り身は一切も並んでいない。丸ごとまんまの魚が、トロ箱にゴロゴロ。お客さんは菅原さんとあれこれ話して魚を決める。それから切り身にしたり、お造りにしたりという手際のいい仕事が始まっていく。

 狭い店で立ったまま話を聞いていたら、いつのまにか刺身の盛り合わせができていて、どうぞと勧められた。盛りつけられた鮪のトロ、赤身、鰤(ブリ)、そして生蛸。艶と透明感で満たされた一皿は、食べるのをためらわせるほど美しかった。口に入れるときめ細やかな舌触りで、脂の乗った身は旨味が濃い。わぁ、おいしいと感動するうち、河豚(フグ)の唐揚げまで登場した。私が「河豚ってちゃんと食べた事がない」といったものだから、哀れんでくださったんだろうか。肉厚でふわふわ。河豚のうまさを一口で教わった気がした。

 いい鯖が水揚げになったよと聞いたので帰りに一本求めると、保冷車から出してくれた鯖は鰹と見まがうほどのデカさ。ピカピカの大きな目に、これはしめ鯖がいいなと直感して、何とかじぶんで下ろそうと決め、塩加減をたずねた。菅原さんは「真っ白、1時間」と即答。車を飛ばして仙台に帰り、さっそく台所に立って3枚に下ろし、いわれた通り白く塩をして、分厚い身だったから2時間置いて酢でしめた。

 薄切りにしておそるおそる口に入れると、まぁ何といううまさ!酢でしめているのだからもちろん酸っぱいのだけれど、身がしまりしっとりとして甘い。つたない技でも、素材がよければおいしいものができるのだと痛感した。妙な自信までつけて、「得意料理はしめ鯖」などとつぶやいてみる。

 それから3週間ほどしてまた鳴子に行く機会があったので、菅原魚店に寄ってみた。「こんなシケの日にきたって何もないよ」といいながら、しばらく思案して勧めてくれたのは、クロムツとキジハタ。私はまったく知らない魚だった。クロムツは開いて一夜干しにされていたが、キジハタは生で菅原さんが晩の肴にしようとすでに串を打っていたのをはずして分けてもらう。

 帰ってネットで検索すると、どちらも高級魚とあり、特にクロムツは超高級魚とされているではないか。どきどきしながら、ガスコンロで焼いた。これまたつたない焼き方なのだが、うまかった。身は白くて、皮と身の間の脂がおいしい。目のまわりなども、さらにまたおいしい。骨までしゃぶるように食べた。

 さらに調べるとキジハタの季節は、「春から秋」とあった。そんな魚が1月に上がるなんて海に何か異変が起きているのだろうか。さらにこの魚の保全状況は「危機(減少)」と記されている。あらためて、前浜の魚を食べることは自然そのものをいただくことだと気づかされる。
 異様に雪の少なかった冬が過ぎ、3月がめぐってきた。乾いた地面を歩きながら海の中を想像した。春の魚のことを聞きに、また山の魚屋に行こう。たぶん勧めてもらい食する一匹の魚は、圧倒的なおいしさで、おいしさ以上のことを私に教えてくれるのだと思う。