たまには

大野晋

たまには違う方向から物事を考えてみる。それが新しい姿を見せてくれることもある。

3月11日の地震は大きいとは思ったが被災地の被害はそれほどのことはないだろうと思った。日本の建物の耐震性は非常に高い。揺れただけでは甚大な被害になるとは思えない。しかし、津波という単語を聞いた途端、私は奥尻の悲劇を思い起こして愕然とした。最近の地震で揺れで多数の人間が死ぬということは滅多にない。特に耐震基準の厳しい日本では特にそれは言えている。しかし、大きな津波や火災など、地震の2次被害が大きなダメージを与えることになる。津波という単語を聞いて、マスコミは何も伝えなかったが、私は最悪を確信した。

被災地の様子を映像で見て、これは戦場だと直感した。人間相手ではないが、大きな破壊に対して、国民を守るにはそれ相応の装備と覚悟が必要だ。日常で対応する警察や消防、ましてや住民のボランティアで成り立つ消防団ではこの大きな破壊には立ち向かえなかっただろう。自衛隊の周囲の国に対するハデやかな武器の装備は役に立たなかったが、有事に対する意識と装備が今回、非常に役に立つと確信した。願わくば、この心意気が多くの外国の人々にも理解されて、軍備に頼らず、有事に立ち向かう国として理解されれば、もっと、尊敬される国に成れるのかもしれない。ただし、核被害にはなにも装備がないというお粗末さも垣間見た。核物質で汚染されたかもしれない場所で、巡視や住民、資材の移動に使える装備がなさそうだったのが問題に思えた。

原子力発電所の対応にも不満が残った。原子力発電所の推進派ではない(中立であったり、擁護したりするとすぐそう批判する多くの論評には辟易とした)が、単純に核は怖いと逃げる気にもなれなかった。広島、長崎の方たちを考えても、大気圏内の核実験がハデヤカだった時代のことを考えても、マスコミのただ不安を煽ればいいといった論調は不満だった。後にデータが出たが、やはり、私たちが生まれた頃の汚染状況の方が福島の事故よりも悪かった。隣の韓国では、日本からの放射性物質だと騒ぎになったが、実は中国から黄砂とともに飛んできた放射性物質が降り注いでいただけだった。それは同様に黄砂の降り注ぐ日本でも変わらないだろう。論理的にありえないといっても、ただただ、パニックになっていたのはY2K騒ぎのときの世界と一緒だった。あの時、メーカの対応側にいた私は、今回も相変わらず繰り返す、不安をあおるマスコミの騒ぎに愛想を尽かしていた。

それにしても、限りある対応策の中で最善の結果を導き出した原子力発電所の現場の方たちは立派だった。特に雑音を自らの職責でシャットアウトした所長は管理職として、技術者として立派だと思う。願わくば、あの経験と知識が後進に伝えられ、多くの原子力発電所の安全対策に生かせる立場へ積極的に登用してもらえればと願いたい。おそらく、日本の組織では、あそこまで上にたてついた人間に昇進の目はないだろうから。(あれば、東電は立派な企業なのだろう)

全ての電源を喪失する。そうしたリスクに対する備えの貧弱さも気になった。おそらく、電源が十分に確保されていればベントの必要などない。電源供給が十分ではない状態で、いかに安全に原子炉を守るかといった観点で、設備や装備、対策が見直されるべきだろう。

自然エネルギーだとか、再生可能エネルギーだとかに過大な期待をかけるのも間違いだ。だだっぴろい荒野を持たない日本ではメガソーラーだとか、巨大な風力発電だとかは用地の確保からして夢物語だろう。それこそ、東京の建物を7割削って、高層マンションをなくし、花火大会をあきらめて、隅田川の河川敷に数百本の風車を造るくらいの覚悟がなければ自然エネルギーは解決策にはなり得ない。むしろ、大都市のエネルギー問題を、都市から離れた田舎に転嫁する、今の原子力発電と同じ構図を描くものだと心得た方がいい。おそらく、協力金といった富の再配分がない分、自然エネルギーの方が原子力よりも地方にはむごい仕打ちになるだろう。

日本を分断する電力周波数の問題や、エネルギー利用地(大都市)の集中の問題、用地、適地の不足。他産業との利害の調整、四方を海に囲まれてしかも地震が多いというLNGパイプラインに不適な地理的な問題など、多くの問題を考えると、現状では原子力’も’使い続けるというのが現実的な選択肢のように思える。

できる限り、安全な対策を施すことと、一から設計、運用できる人材を育て続けることで、世界から頼りにされる国になれば、それはそれでよいことのように思う。今、一番問題なのは原子力の問題から目を背け、もしくは問題を曲解し、もっているはずのきちんとした知恵を持たないことだと、マスコミを賑わした自称専門家たちの様々な意見を聞きながら感じた。同じデータを使ってもバイアスがかかれば、自分たちのイデオロギーに都合が良い正反対の結果が出る。

福島第一原子力発電所の安全はすれすれのところで、現場の技術者たちが守ったが、発電所の外は何も守れなかった。雑音(バイアス)が多すぎて、むしろ信頼できる情報が埋もれてしまった。放射線と人間と医療の研究や知見、施術をどこが担うのか? 原子力を根本から理解し、現場にきちんとアドバイスできるのはどこなのか? そういったところをひとつひとつ考えていく必要がある。

そのとき、反核も、原発推進も、お題目は必要ない。感情やイデオロギーを超越して、冷静に問題に対峙できる、そうした人たちがおおくいて欲しいと思う。日本は世界で唯一の原子爆弾の被爆国のはずである。そして、世界で数えるくらいしかない商業原子炉を作れる技術を持った国でもある。その国に、放射線医療や放射線対策、事故対応に長けた技術がないというのは理屈に合わない。本当に、理屈に合う国に成って欲しい。

生物は突然変異で進化してきた。
その突然変異には地球に降り注ぐ放射線が欠かせなかった。

今も古代の姿をとどめるシーラカンスなど古代の魚たちが深海で発見されるのは進化の仕組みとは無関係ではないだろう。放射線を遮蔽する水の底だからこそ、古代の姿の生物がそのままに保存されたのではないだろうか? 反対に考えれば、私たちは常に放射線の中で生きている。放射線に天然も、人工も違いはない。いや、原子力発電の仕組みも遠く太陽などの恒星の仕組みを真似しているに過ぎないのだ。無関心は問題だが、過度の拒絶反応も必要ないだろう。一定レベルの放射線による被爆では、我々は影響を受けることはない。あればすでに滅びている。むしろ、必要以上に心配するストレスの方が多くの問題のもとになる。

かつて、我々はもっとひどい放射能の中にいた。少なくとも1960年代以前から生きていた人たちはそんなひどい環境で生き延びてきている。過度の心配の必要などないと判断する根拠はそんなところにもある。それでも騒ぐなら、それは広島や長崎出身だからといって、縁談を破談にした、私の小さなときには結構いた、非論理的なわからずやたちと一緒だと言いたい。

結局、私の思考というものは、たまではなく、普段から斜め向きなのだと話をまとめていて、いま気が付いた。