しもた屋の噺(171)

杉山洋一

朝日が目に眩しい朝です。仙台から東京に戻る始発の新幹線でこれを書いています。昨夜、多賀城であった魔笛が終ったとき、熱狂的なスタンディングオーべーションが湧き起こりました。現地から参加した出演者の一人が、東北の人たちがこんな風に喜ぶなんて信じられないと呟くと、別の東北出身の出演者も大きく頷きました。

伏線に「復興」が関わっているとは言え、恐らく大半は初めて魔笛を見る人ばかりでしょう。オペラは勿論、ともすればオーケストラすら初めてかも知れない多くの子供たちも、3時間以上食い入るように見入っていたと聞き驚きました。まめまめしく本当によく世話を焼いてくださった市役所の方々も、このホールが街の人で一杯になることすら珍しいのに、満杯どころかこれだけ喜んで貰えるとは、と感慨で言葉が詰まっていました。これが「魔笛」の素晴らしさなのかもしれませんし、歌手とオーケストラ、演奏者みなさんの力なのかもしれない。

二週間前、初めてここを訪れたときは、部外者の自分が復興支援を、それも音楽などどれだけ役に立つのか、不安と疑念に囚われていたのですが、今回の演奏会に携わって、とても大切なことを学ぶことができたように思います。新幹線は福島を過ぎたところです。

 3月某日 ミラノ自宅
居間で譜読みをしていて、ふと目を外に向けると、3歳のころの息子の後ろ姿が走ってゆき、強烈な懐かしさに胸がしめつけられる。一瞬、頭が混乱する。今日という日はもう戻ってこない。家人が日本に行っているので、息子の学校とリハーサルの送り迎えを、譜読みと授業の合間にやりくりする。かかる非常時には外食にして家事を手抜きすればよいのだが、概して味は濃いし、これからこちらも半月もの間外食続きになるので、結局毎日食事を用意して仕事捗らず悪循環。

 3月某日 ミラノ自宅
息子が歌っているブリテン「ちいさな煙突掃除」を見に、マジェンタ歌劇場へ出掛ける。劇場天井の巨大なフレスコ画は1906年。歌劇場の天井には、明らかにヴィスコンティ風の城が描かれ、ヴィスコンティの紋章が旗めく。雪景色でアルルカンが踊る城門広場に、中世風の装いの男女が賑々しい雰囲気の中犇く。マジェンタはずっとミラノのヴィスコンティ家に治められていたと思ったが、ミラノに吸収されたのは、随分経ってからだった。ブリテンは、音楽もさることながら、出演者が指で影絵まで作ったりして、実に演出が美しい。息子の演技が真に迫っていると口々に声をかけられ気恥ずかしい。主役でもないのに、何故か写真撮影で主役と一緒に並んでいて、一体誰の血を受継いだのか。

3月某日 ローマ空港
今朝は7時前に息子を起こし、風呂を使わせ、8時前にはメルセデスのところへ連れてゆく。そのまま空港へ向かい、ローマの空港に着いた。彼は来週から臨海学校でリグーリアのアンドーラへ出かける。臨海学校と言うより修学旅行。ここから息子が書いた熱川の義父母宛端書を投函。当然乍らローマは暑い。

 3月某日 多賀城駅パン屋
成田から東京経由で仙台まで新幹線に乗り、多賀城に着いた。町の電柱には、到達した津波の高さがそれぞれステッカーで示されている。駅前の登り坂で津波は止まったそうだが、ホテル前の電柱のステッカーは、自分の背丈より高いところに貼られている。ホテル横の歩道橋には、津波の夜70人が避難した。アリアの音楽稽古をしていて、自分が学ぶことは数限りなくある。少しずつ音楽が自分の望む方向に向かいつつある。

出演者の一人が自分と同じように指を欠損していて、どうしたのか尋ねると、子供の頃、コンクリ壁には挟まれて指が壊死し、切断せざるを得なかったと言う。指があるのに切断を宣告された時はショックだったという。昔、切断した小指の先の傷口がなかなか塞がらず、再手術で骨を鑢で削らなければいけない、と言われた時を思い出す。

 3月某日 多賀城ホテル
地元の高校生の踊る獅子踊りが、曲中に挿入されるので、駅向こうの小学校の音楽室へリハーサルに出かける。 獅子舞をどうやって練習するのか全く知らなかった。身体総てを使って、飛び跳ね続ける、爽やかな笑顔が何より初々しく、獅子の面をつけると、校庭でサッカーの練習をしていた、小学生たちが大喜びで走り寄ってくる。獅子は、耳と口の動きでちゃんと子供達と会話している。昨日は、街の文化センターで音楽稽古をしていると、小学校低学年と思しき少女が、練習場に入ってきて、床に坐ってこちらを眺めている。皆、誰か関係者の娘さんだろうと思っていたのだが、洩れ聴こえる練習の歌声に感激して扉に耳をつけ聴き入っていたので、思わず招き入れたと後で知った。

3月某日 駅前ことり喫茶店
練習が夜18時開始となったので、東京へ戻り、橋本君と松平さんの「かなしみにくれる」のリハーサルに立ち会う。こういう作品の成立方法が正しいのかどうか解らないが、縦を合わせるために互いに音を聴くのと、互いの音楽に自らを忍び込ませるために、耳をそばだてるのは根本的に違う。正しい音楽を再現するのではなく、互いの音楽が有機的に重なり合っているのであれば、どんな演奏であっても、すべて正しい、というのは、作曲者の責任放棄なのかもしれない。では、作曲とは責任を負うだけの作業なのかどうか。細かく規定してゆけばゆくほど、合わせることに焦点がゆき、音楽を感じる余裕がなくなってゆく。それが悪いとは思わないが、違う音楽のアプローチがあってもよいだろう。

正しい配分で調味料をブレンドしてソースを作るのと、取り合えず家にあった新鮮で美味な野菜をオリーブ油で軽く炒めてブイヨンをつくる違い、というと少し違う気もするが、少し似てもいる。

聴き手、つまり食べ手に媚びて、喜ばれるよう繕わないところが似ている。 無理に音楽を盛り上げることもなく、沈黙の中をたゆたう。歌から声を取り上げ、そこに声を戻してゆく。一件、何気ない緩やかな音の運びは、実は作曲者の途轍もない暴力に晒された結果に過ぎぬ。

 3月某日 多賀城ホテル
息子11歳の誕生日。ザルツブルグ人形劇に感激して、家人にはマリオネットを誕生日祝いに欲しいらしく、困っている。こちらは、来年からの彼の中学通学用に、大人用キックボード一揃いを日本に発つ前に贈ってきた。修学旅行から帰ってきて、電話の向こうで、心なしか声が少し大人びて聞こえる。

「魔笛」に描かれている二組の男女の恋愛模様の上に鎮座する、イシスとオシリス。棺に閉じ込められ、ナイルに投げ込まれて溺死し、海に流れてレバノンに辿り着いた末に、小さく刻まれて、エジプトのあちらこちらに蒔かれたオシリスの亡骸。それを一つ一つ拾い集めて、もとの形に戻そうとミイラにして魂を吹き込んだイシスの愛。考える必要はないのかも知れないが、震災に翻弄された人々をおもう。朝食を食べる8階のレストランから、大きなフェリーが停泊する仙台港がすぐそこにみえる。無数のオシリスの姿が、地平線にびっしりと折り重なってみえる。

最後の合唱でイシスとオシリスに向かって感謝を述べる件について、音楽稽古の後少し話す。ここで被災された皆さんと、この曲を通して部外者でしかない自分がどう対峙すればよいか、実はとても怖かったことも正直に話す。自分は、自ら気づかないうちに偽善やルーティンに陥っていないのか、毎日稽古の合間、そればかり考える。右手に息子が編んだ赤と青のブレスレットをつけて、何故自分がここにいるのかを自問し続ける。

 3月某日 多賀城駅パン屋
音楽稽古は、ともかく何を誰にどの距離で言わんとしているか、そしてそれは何故か、歌手とともに考える時間。彼らが思っていることを、出来るだけ明確に表現できるように考えているつもりだが、こちらの要求もずいぶん無理なのも分かっていて、申し訳ない。

多賀城駅の料金表の看板。バスに代行になっている線まで、思いの外近く感じる。Aさんは線路が取り払われた、代行バス用の道路をわたるとき、線路はもうないと知っているのに、つい無意識に踏切のように一時停止してしまうと話してくれた。東京からやってきた歌手組は、こちらの歌手組と一緒に、被災地を訪れたそうだ。目の前のさら地が、カーナビゲーターには小学校と表示されていて言葉を失った、と東京組の一人が言うと、実家が三陸だというもう一人が、自分にとってはごく普通の風景だから、そういう感じ方が寧ろ新鮮だと応える。ホテル近くの小さな韓国家庭料理屋で、サムゲタンをたべながら四方山話。本棚に、聖書が並んでいて、編者の名前は韓国人のようだった。その隣にも何冊か同じようなハングルの本が並んでいたが、あれも教会にかかわる本だったのかもしれない。壁には、仙台愛の教会のカレンダーがかかっていた。塩釜で被災地ボランティアの受け皿になっているときいた。

3月某日 多賀城ホテル
誰がいうことにも、一理も二理もある気がするので、そこから正解を探そうとするのは、ほとんど意味がない。理詰めや整合性だけで取捨選択するのも、われわれの仕事の上では、少し違う気がしている。何か異議を唱えられた場合、ほぼ間違いなく、あちらが正しいのは、経験上理解しているので、素直に受容れたい気持ちもある。不可抗力がある時、そこでどう落とし処を見出すか。本当に学ぶ事は毎日たくさんある。オーケストラと歌手のバランス一つにしても実に悩ましく、結局ピットを20センチ深く下げた。

 3月某日 追伸 三軒茶屋自宅
一日だけ東京に戻る。朝、少しだけ沢井さんのお宅へ出掛け、正倉院の七絃琴のための「マソカガミ」を聞かせて頂く。音と音との合間に無限の空間が広がる。何故かかる不完全な音に美しさを見出すようになったのだろう。主張する音ではなく、説得力のある音でもない。聴き手は耳をそばだて、音へ自ら近づかなければならない。沢井さんは、この楽器は人に聴かせるためでなく、自らのため自分でつまびくものだったと言う。

日本から離れている時間が長くなる程に、自らの文化への憧れが強まる。七絃琴の音から、当時の日本の文化を思い、そこへ辿り着いたペルシャや諸外国の文化を思う。

(3月31日三軒茶屋)