掠れ書き37

高橋悠治

何の理由もなく一連の音が心に浮かび、聞こえる音を書きつけるという単純な作業を続けるのが作曲ならば、このとき「聞こえる」と「創る」とはおなじではないだろうか。ところが「聞こえた」音を書いてみると、どこかちがってしまっている。だからといって、修正を重ねていると、いつか耳は閉じて、構成する慣れた手がはたらいている。

音楽を聞くときは、すべてを受け入れるのではなく、ちがう道をさぐっている。この音楽でもいいかもしれないが、ある瞬間にこれでないものが一瞬見えるような気がする。長い年月に川は流れを変えるように、聞こえる音楽のなかに、聞こえない別な支流があり、どの流れも谷をめざして流れ下る。

規則的に区切られていないリズム、白い音符だけの音楽。17世紀フランスの鍵盤奏者たちの「拍のない前奏曲」のジャンルなかでも、未出版のメモだけが残されたルイ・クープランの場合は、不規則に崩された和音とその間を走る線、景観生態学でいう飛び石と回廊の空間で、ジョン・ケージのナンバーピースは、それらの飛び石が偶然に集まったような和音が点滅する空間だった。近代音楽は管理と統制の時代の音楽で、和声は調和(harmonia)の近代的概念で、調性は単純化した中央支配の道具とも言えるだろう。

前奏曲は書かれた即興だった。音楽史をさかのぼり、ルイ・クープラン以前、旅する音楽家フローベルガーのアルマンド、その師だったフェラーラのフレスコバルディのトッカータ、そしてモンテヴェルディの「第2作法(seconda pratica)」、論理より感覚を、多くの声を平等に操作する技術から、自由なメロディーの抑揚へ。でもポリフォニーからモノディーへの歩みはその代償のように和声を発展させる。

白い音符の音楽の別な使いかた。音高と順序だけを記すのは、それが音楽のなかでもっとも重要な要素だからではなく、書くことができる最小限の部分で、スプーンの柄のようにスープから突き出ていて、アルキメデスの梃子のように、動かしながら探っている先端は見えず、書けず、ことばにもならない。演奏は固定したリズムを離れて、わずかなうごきや強弱・緩急のちがいを捉え、アクセントを変えながら多彩なパターンをその場で創りだす。だがそれらは定着せず、その場に応じて毎回やり直して、演奏は完結することはないだろう。

最小限の楽譜は秘教的なものとみなされれば、それを解読し、分析し、和声構造やリズムの規則性を発見することで、既成の音楽的秩序に引き戻すのが音楽学の務めなのだろうか。そういう試みが無用とは言えないが、光を知りながら陰の側にいて、見えている構造は仮の足場以上のものとせず、風が吹きすぎ、さまざまな種子を呼び起こして入り乱れる軌道に舞わせるように、解釈のおよばない部分に触れながら、すぎていく一回の演奏で遠くまで逝き、また反ることができれば、手慣れた型が聞きなれない響きを立てる時がくるだろう。音楽は聞こえるものでありながら、聞こえないものの兆しともなって……