掠れ書き33 即興の場

高橋悠治

ピアノの即興演奏の場合は、まず鍵盤のどこかに手を置き、動かしてみる。弾こうとする音を思いついたら、それをまず弾いてみることもできる。この場合は、意志があり、意図があると言えるかな。そうでなく、置いた手をゆるめることもできる。ゆるめると言えば、意図があり、意志がある。意志があれば筋肉が硬くなり、その抵抗を越える時間だけ動きが遅れるだろう。すると予期しない瞬間に音が出てしまう。この一瞬の遅れは、自分では気づかなくても、観客からは見えている。ミラーニューロンが作用して演奏者と同調している身体運動に不自然なブレーキがかかれば、共感もそこで一瞬停まる。見ていなくても、音を聞いているだけでも、リズムの微かな乱れとしてつたわるのではないだろうか。ありうることだ。

手をゆるめるのではなく、手がゆるむ、意図せずにどうしてそんなことができるだろう。手がゆるむというのはひとつの言いかたで、おそらく手から上半身のほうに引き下がって、足裏と坐骨で安定した座にもどる感じがするときにそれが起こる、と言えるかもしれない。すると、手は意図で動きを妨げないかもしれないが、全身の姿勢を整えるというところに意図があり、手は一瞬意志の束縛からはずれて鍵盤に落ちるのだろうか。

手にまかせずに、まず弾こうとする音をイメージし、それを弾くこともできる。その場合は、意識は手から離れてイメージした音のリズムに同調しているだろう。演奏に先立って考える時間はある。それでも手が動き出したら、考えないで感じるだけになる。

ともかく最初の一音あるいは一連の音が鳴った。そこでどうするか。考える時間はあまりない。余韻を聞きながら感じるだけ、考えれば手がためらう。音が行きたいほうについていく、と言う人もいるが、たいていは作曲家だから信じるかどうかは結果として書かれた作品によるだろう。それも紙の上ではなく、弾いてみるか、すくなくともイメージのなかで聞いてみるよりない。1960年以後は、音列技法や構造分析や作曲理論は共有されていないし、一つの方向へ向かって無限の進歩を続ける、というような音楽観は過去のものになった。どのみち今は即興しているわけで、紙の上で全体構成や図式があったり、次のページが見えていることもない。

前後との差しかなく、切れながらつながる空間。それぞれの一節は隣り合っていて、似ているかもしれないが、変化しながらいつか次の一節に流れこむのではない場合がある。また別な時は、おなじものが反復される時にどこかが省略され、どこかにちがうところがあり、このプロセスが続けばいつか別なものになっていく。

偶然が入り込んでくる。瞬間に消える音にかたちをあたえるのは記憶で、紙に書かれた図形や記号が記憶のかわりに使われるようになったのは、偶然に応える有効な対策のひとつでもあり、何かが継続しているという安心感のせいでもあると考えられるだろうか。

即興は場をつなぐ。その場にいる人びとをひとつの音楽でつなぎとめているだけでなく、他の演奏者にも応えながら、スタイルという側面では、この場が孤立したものでなく、別な場所、別な時にあるたくさんの場所、そこにいる人たち、そこにあった音楽とどこかでつながっているという思いのひろがりがある。

その場で生まれる音は、それぞれの楽器、それぞれの音楽の偶然の出会いの結果で、それが次の音に交代するのも、それぞれのパターンの絡みあいと、それらを断ち切る別な偶然の現れと言ってもいいだろう。

つながりながら切れている、一度だけの経験でありながら、くりかえされる場でもある。即興はくりかえせないが、録音したものを聞き返して、そこに何かを発見したとすれば、それは意図しなかった音、意識していなかった部分、記憶されなかった小さな断片であるのかもしれない。そこから別な音楽が生まれる芽のようなもの。