ふたたびどこへ

高橋悠治

いつも対話のなかで 音楽はなりたっていた 対話の相手は武満 クセナキス ケージ マセダ 高田和子 みんないなくなってしまった ある日 こたえが還ってこないことに気づく それでも 生きつづけ まだ歩みつづけて どこへさまよっていくのか いつまでか

そういう時に 弓の弦は過去にむかって引き絞られ 矢はどことも知れぬ暗い空間に墜ちてゆく ふりかえり たどりなおし 古道に 気づかなかった小さな曲がりをみつけるために その曲がりこそ ルクレティウスがクリナメンと名づけた偶然のはたらく地点 理由のない変化をもたらし 世界をつくり つくりなおすきっかけ

ここに 少年時代の音楽の師であり 年月を経てふたたび友人となった柴田南雄のための文章がある すでに起こったことは 二度とおなじかたちでは起こらない それでも いくつかの臨界点をさぐりあて そこから 間道に逸れることができるかもしれない 

「柴田南雄の軌跡」

柴田南雄に作曲を習ったのは1953年からの3年間、いま考えると短い年月の間に多くのことをまなんだのは、その時代は日本の現代音楽の転換期にあたったからかもしれない。一応の義務のように伝統機能和声をヒンデミットが整理した本で学ぶとすぐ、クルシェネックの12音対位法をテクストにして短い曲を作曲するレッスンと柴田が諸井三郎にまなんだ楽曲分析のレッスンがつづき、柴田と入野義朗が主催していた12音技法のセミナーにも誘われて参加していたし、NHKでの海外現代音楽の解説録音にも連れていってもらった。音列技法の日本への移入と、柴田と入野による作品初演までのプロセスに立ち会っていたことになる。

しばらく日本を離れて1972年にもどってから「トランソニック」グループを組織した時、柴田南雄は最年長のメンバーとなった。当時かれの活動は作曲よりも民族音楽学に向けられていた。音楽の骸骨や模式図と命名した日本の民俗芸能の旋律図式モデルによって、合唱と尺八のための『追分節考』を書いた時、かれは新しい道をひらいた。それまでのヨーロッパ中華思想で統一されていた前衛音楽は、ポストモダンの多文化に転換しつつあった。それは一時的な戦後民主主義時代が終わり、1968年の反権力世界革命をきっかけとして起こった社会の変化に対応する文化的表現と考えられるだろう。「トランソニック」は音楽の政治性をめぐっての武満徹と高橋悠治の対立から3年間で解体したが、柴田は林光や高橋とともに離脱する方向を選んだ。理由もその後の方向もちがっていたが、柴田の場合は世界音楽史への関心と同時代の音楽についての知識から、時代の転換の意識と、自分の立場と様式についての確信があったのだろう。

柴田南雄は第2次世界大戦中に自己形成した世代で、軍事体制下の民族主義や精神主義への反発から、立原道造の建築的叙情とマーラーのメタミュージックを一生の指針とすることになった。戦後は立原のテクストをヒンデミット的に抽象化された機能主義力学で音楽化した歌曲集『優しき歌』、1950年代後半には北園克衛のモダニズム詩と12音技法による『記号説』、そして1970年代以後は『追分節考』にはじまる合唱劇を多く書いた。
これらの合唱劇の特徴は、多様式、無名性、交換可能な部分の堆積による作品、芸能成立の場を追体験するプロセスとしての作品の身体性、対象様式からの距離と抽象化をともなう新古典主義あるいは擬古典主義、それにともなう反表現主義と乾いたユーモア、メタ音楽性つまり音楽についての音楽、と言えるだろうか。多くの場合、アマチュア合唱団によって演奏され、技術主義と競争原理でうごかされる合唱運動への反教育としての効果もある。

多くの作品がフィールドワークや考証にもとづき、テクストや様式に関しては柴田純子、演奏と演出に関しては田中信昭の協力が不可欠だった。個人の自己表現から親密な小グループのコラボレーションに向かうのは、芸術にかぎらず、現在の創造的活動の基本原理であり、ここでも柴田の活動は先駆的モデルとなっている。

おなじ場所で足踏みしている 見ているだけ 考えてはいけない 考えれば いまの地点にとらわれる ただ見つづけるうちに 顕われてくるものがあれば すでにちがう場所に移動している