2009年6月 目次
しもた屋之噺(90) 杉山洋一
メキシコ便り(21)新型インフルエンザ、その後 金野広美
緑鉛鉱理論――翠の石筍56 藤井貞和
街の記憶 大野晋
間奏曲:シコとカエターノ 三橋圭介
サカジャウェアたち くぼたのぞみ
製本、かい摘みましては(51) 四釜裕子
梅雨だけど雨が降りません 仲宗根浩
田んぼプロジェクト 冨岡三智
オトメンと指を差されて(12) 大久保ゆう
5年ぶりのバスラ 佐藤真紀
耳の慎ましさ 高橋悠治
し もた屋 之噺(90) 杉山洋一
1年前のある冬の朝、庭のタイルの上に凍えて息絶えていた黒い鳥を、庭の端に穴を掘って、そっと埋めたことがあります。先月、ミラノを訪れてい た母から、蔦の絡むレンガの壁づたいの、ほら、あそこの繫みに可愛らしい黒い鳥の巣がある、と指差され、春の到来で忙しく行きかう番いの鳥をながめて過ご していましたが、あるとき気がつくと、昨年、円らな目を見開いて、すっかり堅くなっていた小さな黒い鳥を埋めたのは、まぎれもなく、その巣の真下でした。
今や、その巣から、羽根も生えそろわない幼鳥たちが、連れ立って庭の芝へ降り立っては、頼りなく整列しながら何か啄ばんでいるのか、ただそぞろ歩きをして いるのか。いずれにせよ、愛くるしい光景に思わず頬がゆるみます。単なる偶然かも知れないけれど、万が一にも偶然だけではなかったかも知れない。ドヴォル ザークの「野鳩」をふと思い出しましたが、庭でチュルリン、チュルリンと呼び交わしあうオレンジ色の嘴の黒い小鳥は、ずっと無邪気なものです。
4歳になった息子が、この処、すっかり絵を描くことに夢中で、寝てもさめても絵を描いていることもあって、来週日本に戻る前にと、子供と家人と連れ立っ て、ドゥオーモ脇の王宮美術館でやっている「モネと日本」展と「イタリア未来派」展にでかけてきました。
自分が勉強しているドビュッシーのイメージを具体的につかみたくて、直にモネを見たかったのですが、まるで自分が読んでいるスコアのように感じられるのに はびっくりしました。叩きつけるような強い筆致から、小刻みに震えるオーケストラから立ち昇る和音、イメージ、色。近視眼的というより、むしろ、題材から 視点を離し、俯瞰するように描く風景は、北斎や広重の影響を指摘されても、あらためて納得できる気もしましたし、香気とでも呼べばよいのか、湧き上がるよ うな光の奥で、おそらく本人以外見えず、聴こえない領域で、実にしっかりと、そして生き生きと作品が息づいていることに圧倒されます。
二人を印象派で括る先入観は、殆ど意味を成さないでしょうし、本人たちも喜ばないとは思います。ただ、イタリアに住んで、イタリア的な触感で音や絵画と暮 らしていると、音響や光によって、「超2次元的」に題材を扱う姿勢は、文字通りフランス文化以外の何ものでもないとおもいます。「超2次元」というのは、 一見2次元の平面的、静的な捉え方をしているようで、その実、内部でとても激しいドラマが沸きあがっている、とでも説明すればいいのでしょうか。さもなく ば、表面がその香気でコーティングされているとでも言えばよいのか。
イタリアは、絵画、音楽、料理、すべて、フランスの洗練された表面の香気からほど遠い文化であって、情念は情念のまま表現し、題材、素材をそのまま生か し、直情的なほどに表現します。そんな国に住んで、直情的に日々を過ごしていると、余計、モネやドビュッシーに圧倒されるのでしょう。同じオペラであって も、バレエもふんだんに取り入れた豪華絢爛なグランドオペラと、ヴェルディのオペラを比べてみれば、明らかです。
驚くほど美味で、はっとする彩りのソースを掛けられたフランス料理と、ただ肉を叩き、塩と胡椒をふって焼いただけのイタリア料理。どちらにもそれぞれロマ ンとドラマがあるのは言うまでもありません。ただ、驚くほど違うわけです。和音ひとつをとってみても、機能和声の輪郭を崩し、ぼかし、和音を積みかさねて 旋法に溶かし込んでしまったフランス印象派の時代に(カセルラは例外としても)、レスピーギやブゾーニは、バッハやフレスコバルディの古典をどこからか発 掘してきては、ダンヌンツィオのように士気昂揚すべく大仰な衣を着せ(一切和音には手を加えず!)、まるでミラノ中央駅のように無骨で巨大な、オクターブ ばかりのピアノ作品へ編曲していたのですから。
細密にわたりびっしり、しかし静的に書き込まれた無数の光、素っ気ないほど突き放した色気のない速度表示、偏執狂的に固執した対比率と、几帳面なほど正確 な数字。ドビュッシーの楽譜は、そのまま、絵画のようにすら見えます。額縁にきちんと収められて書かれた絵画は、ひとたび音が鳴り出すと、めくるめく瞬間 が、うず高くそそり立ったかとおもいきや、洪水のよろしく一気に外へ溢れ出てゆきます。
モネのあのなんとも言えない空の色。水の色。薄く澄んだ紫、くすんだ水色やくぐもった桃色。フランス料理のソースを思わせる美しく香る中間色は、フランス 印象派の影響をつよく受けたはずの、イタリア未来派の画家たちでさえ、一切見られません。光線そのものがイタリアとフランスでは少し違うのかもしれない。 そんなことすら頭を過ぎるほどです。
尤も、愚息が興奮していたのは、モネ展よりむしろその後に出かけたイタリア未来派展の方で、とりわけバッラが1916年に製作したディアギレフのバレー 「花火」のための「発光する舞台装置」のところで、ストラヴィンスキの音とバッラの組合せにすっかり夢中になり、どれだけ長い時間釘付けになっていたこと か。あそこで息子は踊りだしたかったに違いありませんが、流石に恥ずかしかったのか、座ってじっと舞台を眺めてくれて、こちらも安堵しました。
モネと未来派を立て続けに訪ね、フランスとイタリアの文化の相違を如実に実感したのも愉快な経験で、どんなキッチュを企んだとて、所詮イタリアはミケラン ジェリやダヴィンチを生んだとんでもない国であり、ルネッサンスが花咲いた国であり、それを否定すれば否定するほど、そこが浮上って見えてしまう、と妙な 感心をしました。アナーキーだった筈の未来派が、結局ルーチョ・フォンターナを生み出すまでに至り、その後のイタリアを決定づけたのですから、振り返れ ば、実に偉大な20世紀の文化運動だったことに気がつきますし、あれだけ充実した未来派の展覧会を実現させた企画者の心意気に、揺ぎ無い誇りが感じられま す。
さて、来週から久しぶりの東京です。桐朋のみなさんとどれだけ楽しく過ごせるか、今からとても愉しみにしています!もちろん、味とめの納豆ピザを忘れる筈 はありませんから、どうぞご心配ありませんように。(5月18日 ミラノにて)
メキシコ便り(21)新型インフルエンザ、その後 金野広美
4月の末、メキシコから始まった新型インフルエンザの世界大流行でしたが、ここメキシコではあのことはまるでうそだったかのように、すっかり沈静化して、 日常生活がもどっています。いまではマスク姿もほとんどなく、食べ物を売る店の人も申し訳程度のあごマスクです。私も5月の中旬くらいまでは、日本から友 人が心配して送ってくれたマスクをしていましたが、今ではなんだか「私はインフルエンザにかかっています」と宣伝しているみたいで肩身がせまく、そのうち バッグに入れて外出することも忘れるようになってしまいました。
メキシコで4月23日、最初に発表された死者数68人も時間がたつにつれて減り、また増えと情報は錯綜しましたが、この数字はメキシコの検体能力が当初は なく、はっきりと新型インフルエンザとわからなかった人もすべて含まれてしまっていたためでした。持病をかかえていた人も多く、その中の半数近くは超肥満 の人だった、とかいわれています。メキシコにはとても太っている人がたくさんいます。100キロ越しているのはざらで、日本の肥満とはスケールが違いま す。食事は脂っこいものを大量に食べ、大好きなおやつはコーラとポテトチップスです。これで太らないはずはなく、ゆさゆさと巨体を揺らしながら歩いていま す。それでいてテレビは、やせ薬やダイエットマシンのCM花盛りなんですよ。なんともせつないことです。
衝撃が世界中をかけめぐってから、私の学校では5月はじめには日本人が大半いなくなりました。私はもちろん帰国しなかったのですが、メキシコから世界へと 感染が広がるなか、今では帰国しなかった私の判断は正しかった、と友人や家族からお褒め?の言葉をもらいました。
私は帰国をみんなから勧められたとき、3つの理由をあげ、帰国しない旨を伝えました。この事件がはじめてメキシコで起こり、日本人の友人たちが、次々帰国 するといってきたとき、「帰るところがある人はええわなー。どこにも逃げるところがないメキシコ人はどないしたらええんやー」と密かに心の中で思ったのが 1番の理由でした。そして2番目はこの事件はメキシコから始まったのだから、そのあと世界に広がっていくでしょうが、1番初めに収束するのもメキシコから だと思いました。そして今、まさにその通りになりました。3番目は日本に帰ったら機内検査で4、5時間拘束されるということでしたし、おまけに最初の感染 を疑われた女性に対する人権蹂躙とも思われる対応ぶりを知って、帰りたくないと強く感じたことなどでした。
足早に帰国した友人たちは、帰ったことを後悔している人も多くいます。ある女子学生は帰国に関して学校側は彼女の判断に任すといってくれたにもかかわら ず、彼女のお母さんが1日に5回も泣きながら、少しでも早く帰るようにと電話をしてきました。彼女はこのまま勉強を続けたかったにもかかわらず、お母さん を説得しきれず、泣く泣く帰国していきました。そして日本に帰ったら今度は復帰した日本の大学が休校になり、ふんだりけったりの目にあったのでした。
そして別の友人ですが、彼女とは帰国の前日会いました。やはり彼女も帰国したくなかったにもかかわらず、お母さんに懇願され帰ることになりました。帰国し てから10日間はホテルに泊まるよういわれたのですが、日本円がないので、お母さんが空港までもってきてくれることになりました。そのときお母さんは「マ スクをして封筒に入れたお金を、おはしで渡すから」といわれたそうです。彼女はすごいショックをうけ、すっかり落ち込んで泣きそうになっていました。それ はそうですよね。まだ感染しているとわかったわけではないのに、実の娘をバイキン扱いするのですから、彼女が落ち込むのは当たり前です。私は彼女に「お母 さんをここまでおかしくさせているのは日本の報道やろうから、決してお母さんを恨んだらあかんで、ほとぼりがさめたら、きっと元のお母さんに戻らはると思 うで」と声をかけることしかできませんでした。
私は日本の新型インフルエンザに関する報道はネットでしか見ることができませんでしたが、彼女たちの家族の反応ぶりをみると、その過剰ぶりが十分想像でき ました。日本にいる家族がここまでヒステリックになり、冷静さを失くしてしまうような報道内容だったのではないかと思います。この間のメキシコの実態とは かけ離れた報道といい、こんなときだからこそ、最も必要であるべきはずの冷静さを失わせてしまうような報道といい、私は今、ノーテンキすぎるメキシコにい ながら日本を思い危機感をつのらせています。それは、もし、これから対応の仕方いかんによっては戦争につながってしまいそうなことが起こった時、相当ヤバ イことになるのではないかという気がしてしまうからです。
緑鉛鉱理論――翠の石筍56 藤井貞和
亜鉛鉱の、閃きを、
左右に通す、
巻いた管のかたちの、
ぼくの疲れを、
蒼鉛のえんぴつで、
けずり落とす翠。
このときを、
越えられるならと、
つくえをならべた、
ぼくの誘惑で、
さらに滞る書き物の未来。
緑鉛鉱理論を、
眼の未開に置いてきた過去は語る、
お休み、すこしね、
ねずみがキスするぼくの頬、
翠。
(「ぼく」という代名詞で書いて見ました。「わたし」に置き換えると、べつの作品になるのがおもしろい。「わたしの疲れ」「わたしの誘惑」「ねずみがキス するわたしの頬」。代名詞言語理論の一部。緑鉛鉱はPyromorphite。)
街の記憶 大野晋
街の中のなにげない風景にもさまざまなものが写り込む。多くの写真作家がその写り込む何かを求めて、街の中のさまざまな様子を写真に写し撮ろうと街を歩 く。
新宿のペンタックスフォーラムへ片岡義男「撮る人の東京」というタイトルの写真展に出かける。東京写真月間というイベントの一環らしいが会場に飾られた街 の断片が東京という街の一面を映し出していて、撮影者の視点を感じて面白い。渋谷や新宿と言った常に新しく生まれ変わる町がある一方で、東京には時代に取 り残された街角が街の記憶のように残っている。
写真展を一通り見て、会場のあるセンタービルの地下から地上に出ると、高層ビルと夕闇の空の今の東京が迫ってきた。目の錯覚を起こしそうな歪んだ新しいビ ルのある風景を見ていると、東京の別の面が見えてくる。
さて、写真展と写真展と同時に出版された写真集を見ていて、ふと、あることに気が付いた。写真展を見るとその最後に提示されたカレーライスが食べたくなっ てくる。もっと困ったことに、写真集を見ていると要所要所に配置された写真からオムライスがしきりと食べたくなる。もしかすると、深層心理に働きかけるサ ブミナル効果があるのかもしれないと思ってしまった。残念というか、新宿にはそこのオムライスが食べたくなるような店を知らなかったのが幸いだったのだ が。
ちなみに、何度か書いた夜の街の記憶をナイトハイク・イン・マツモトと題して仮展示中です。東京の昼間の景色と地方都市の夜の風景。何かしら近いものがあ るように感じられてならない。
PENTAXアルバム:ナイト ハイク・イン・マツモト
間奏曲:シコとカエターノ 三橋圭介
シコ・ブアルキとカエターノ・ヴェローゾ、80年代には「シコとカエターノ」というテレビ番組で共演し、現在では互いの音楽、芸術活動を認め合っている仲 間だ。しかしブラジル・ポピュラー音楽の巨匠ともいえるこの二人には過去に因縁めいた話がある。
カエターノは「トロピカリア」の中心人物としてアメリカやイギリスのロックをブラジルにもたらしたが、ボサ・ノヴァを通して新しいサンバを生み出したシコ にとって「トロピカリア」は即座に批判すべき対象ではなかったにせよ、二人にはある時期たしかに溝があった。
前回取りあげた1966年に行われたTVへコールの第2回歌謡音楽祭のエントリー前に、シコはライバルでもあるジルやカエターノに2曲きいてもらい、どち らの曲がいいか判断をあおいでいる。ジルは未完の「A Banda」を選び、カエターノは「Morena dos Olhos D'Agua」を選んだ(カエターノは後にこの曲を歌っている)。結局、「A Banda」で優勝し、シコは若くして大スターにのし上がっていく。
その次の音楽祭はカエターノの年だった。ロックバンドを引き連れた「Alegria Alegria」で第4位となるが(シコが「Roda Vida」で第3位)、大ヒットし、一躍時の人となる。「新境地を切り開く若者のリーダー」など新聞社がこぞって褒め称えた。レコードは10万枚を売り上 げ、時のアイドルとして、その人気はビートルズ・マニアを彷彿とさせるほどだった。
シコの「A Banda」は老若男女問わず万人に認められた。一方、カエターノは若者の人気者となった。この違いをカエターノは後に分析している。「彼は 『Alegria Alegria』がリリースされる前の年、悲しい道をバンドが通り過ぎていくノスタルジックな、オールド・ファッションの『A Banda』で音楽祭に優勝した〜コカコーラを含む20世紀の生活を扱い(歌詞参照)、ロックバンドでやった『Alegria Alegria』は、シコの歌とは対極を示している」。「『A Banda』は、確実にシコのマイナーな作品だが、彼にとって扉を開くのに役に立った〜だが、その歌は彼にできる作曲の洗練というものをほとんど反映して いない」。
Alegria Alegria(アレグリア・アレグリア)
風に向かって歩く
ハンカチなしで 書類もなしで
もはや12月の太陽の光の中を
僕は行く
太陽は罪を配分する
広大な寺院 ゲリラ戦 美しいカルディナーレたちの中を
僕は行く
大統領の顔、恋人たちの激しいキス、歯、足、旗、
爆弾とブリジット・バルドーの間を
新聞スタンドの光は、喜びと退屈で僕をいっぱいにする。
だれがこんなにに多くのニュースを読むというのか
僕は行く
写真と名声を横切って
いろんな色の目 空っぽの愛でいっぱいの胸を通過して
僕は行く
どうしていけないの? 何がだめなの?
彼女は結婚のことを考える
僕は一度も学校へ行っていない
ハンカチなしで 書類もなしで 僕は行く
僕はコカコーラを飲む
彼女は結婚のことを考える
ある歌が僕を慰める
僕は行く
写真と名前を横切って
本をもたず 銃ももたず
空腹もなく 電話もなく
ブラジルの中心を僕は行く
彼女には決してわかるまい テレビで僕が歌うと考えたことを
太陽はあまりに美しい
僕は行く ハンカチなしで 書類もなしで
ボケットにも、手にも決してもたない
生きながら後を追っていきたい、ねえ君、
僕は行く どうしてそれがだめなの?
(ベアトリス訳)
これがカエターノのだいたいの意見だが、まだ続きがある。カエターノにとっての「Alegria Alegria」もシコの「A Banda」と同じ役割しかなかった。つまり扉を開くこと。「『Alegria Alegria』が音楽祭のなかでマルシャであったという事実、それはアンチ・バンダ(反『A Banda』)であり、もう一つの名前のバンダ(ロック・バンド)でもあった」。歌詞の内容の類似を含め、共にオールド・ファッションであると述べてい る。「Alegria Alegria」は「A Banda」の「一種のパロディ」だった。
カエターノがこの話を切り出すきっかけは、当時、二人の間にライバル関係が問いただされていたことから始まっている。同じ時期に二人のスターが生まれ、一 方は伝統を更新し、もう一方はロックという形をとる。しかしそうではない。どちらも同じものの言い換えにすぎない。ただ、メディアはそのようには見なかっ た。
ある時、カエターノがシコについてどう思うかをきかれたとき、新聞には次のように掲載された。「シコは緑色の目をもつ若く美しい男でしかない」。当然、そ の前後を削除して批判的な部分を切り抜いた。この前には「僕は大きな髪の若者で、シコは緑色の目をもつ若く美しい男」とあった。掲載された記事についてカ エターノはシコに説明をしなかったし、あまり心配もしていなかった」。しかし、これがきっかけとなり、特にシコの支援者から批判を浴びることになる。
カエターノの支援者よりもシコの支援者ほうが圧倒的な大多数だった。1968年6月6日、シコが前年まで所属していたサンパウロ大学建築学部都市計画学科 の学生によって企画されたトロピカリスタたちへのバッシングは、そうした意味合いがあったと思われるし、トロピカリアの論争がシコとカエターノの関わりか らその規模を増したということもできるかもしれない。
サ カジャウェアたち くぼたのぞみ
文字をしらない
はなさんは
学校をしらない
はなさんは
誕生日をしらない
はなさんは
生まれは新潟
米どころ──でも
父も母もしらない
はなさんは
オレゴンのサカジャウェアさながら
やさぐれ者の手に渡り
流れながれた開拓地では
おさないころから朝起き
煮炊きをおぼえ──さらに
たんと知らされたろうか
ひとつのことを
地中ふかく人の手がのび
黒い燃える石を掘るため
「まっくら」の世界に
あつまってきた男や女の群れのなかで
黒煙くゆる
赤平の、歌志内の、文殊の
ずらりとならぶ長屋また長屋で
その目に写っていても──たぶん
見えなかったか
ピンネシリは
はなさんに
見えてはいけなかったか
熊笹のかげの
サカジャウェア
たち
は
製本、かい摘みましては(51) 四釜裕子
東京製本倶楽部の「紙の技、本の技」(2009.4/29-5/6 目黒区美術館)展で、2日午後にアトリエ・ド・クレの岡本幸治さんが中世西 欧の製本法を実演くださった。様式は大きく分けて3つ、カロリング、ロマネスク、ゴシック製本、いずれも穴をあけた木の板を表紙とするが、綴じの支持体を どう板に通すかが違う。羊皮紙に書写したものを折りたたんでいた時代だから、最低限厚い板でしっかりおさえる必要があった。そして本は横に置いていたので 「ちり」はなく、ヘリンボーンのように編み上げられた「はなぎれ」の外側には引き出すときに指でおさえやすいように大きな革がつけてある。
3種類の見本が並べられ、人だかりの中で幸治さんが手を動かしている。用意された表紙用の板は5ミリ厚くらいだったろうか。はがきとして使用できる素材も さまざまな板が市販されており、幸治さんはそれを活用しているという。材料は特別なものではないし針の運びもシンプルだ。すぐにもやってみたいと思うが、 あの板の厚みの「面」にむかって斜めに小さな穴をあけるなんていうのは絶対にできそうにない。でも、やってみたい。「穴のあいた板を売ってもらえないで しょうか。」安易な私の質問に幸治さんは絶句した。ごもっとも。そんなつもりはないはずである。お恥ずかしい――でも思う、穴のあいた板があったなら。
アトリエ・アルドの市田文子さんは「歴史的製本講座」としてリンクステッチによるコプト製本や中世の製本などを行うワークショップも行っており、ウェブサ イトからその内容の一部を見ることができる。インキュナブラの展示や図録に製本法の解説を読みつつ、製本の研究と試作も重ねてこられた幸治さんや市田さん のような製本家の活動を知る機会を与えられている現代は、なんてうれしくありがたいことだろう。時代に揃う材料で、求められる本のかたちのために工夫を凝 らしたよりよいものが、その時代を象徴する製本法となってきたのだ。今を象徴する製本の技術といえばPUR接着剤無線綴じになるだろう。機械製本の話で あったが、接着剤の改良で手製本でも丈夫にできる。美篶堂のワークショップで作った無線綴じのノートなどは時間が経ってもやわらかによく開く。無線綴じ! とむやみに嫌うことではない。製本というひとつの大きな森の中でのできごとなのだ。
梅雨だけど雨が降りません 仲宗根浩
先月、ノート型のパソコンのハードディスクを貧相な40GBから120GBに交換。 もう一台のパソコンもOSの入れ換えなどしていたらバックアップの住所録のデータが飛ぶ。まあ、今年来た年賀状と今までのメール見てまた入力すればいい。 たいした数でもないし。いま、テラバイトのハードディスクが一万円を切る価格になっている。でもそんなにあっても使いやしない。
五月は七年ぶりにチケットを買い、二日間、山下達郎のコンサートに行く。七年前、小学校一年生で連れていったガキはもう中学二年生になった。どうしても行 きたい、という。ついに部活を早退しやがった。いい根性してる。今回は見事なロックンロール・ショーだった。二日目、一曲おまけで演奏曲が増えたことをあ とで知ると悔しがっていた。二日目は離れ小島に合宿に行っていたから当然行けない。「ロックンロールはパッションさえ失なわければ懐メロになりません。」 こんな言葉を聴いたコンサートから家に戻ると四十年前に作った曲を懐メロにしなかった稀代のロックンローラーが死んだニュースがテレビで流れた。最初に聴 いたのは「僕の好きな先生」。小学生の頃、兄のパシリで「新譜ジャーナル」「ヤング・ギター」をよく買いに行かされた。三人組はその編成からフォーク
にカテゴライズされていた。だから「ステップ」を歌う姿がテレビに出たときはびっくりした。こんなになっちゃったんだ。しばらくするとどこの学校の文化祭 でも「雨上がりの夜空に」をコピーするバンドが異様に増えた。数日間はテレビの決まりきった映像、コメントに辟易する。
「愛し合っているかい」
オーティス・レディングが映画「モンタレー・ポップ・フェスティバル」で"I've Been Loving You Too Long"を歌う前に観客に語りかける。DVDの字幕では「みんな、愛し合っているよね。」と訳されていた。
ラフィー・タフィーの映像を見たミーハーはギターとベースのアンプ、真空管は手が出せないので同じ"ORANGE"の小さな練習用のものにした。
梅雨に入ったが雨は二日くらい降っただろうか。涼しく、すごしやすい天気が続いている。クーラーはいまだ稼働せず。めずらしく奥さんがカーペンターズの CDが欲しい、という。最近出たベスト盤だった。新しくリマスタリングされ初めて高音質と言われているSHMーCDというのを買った。十数年前、四、五枚 購入したものと全然違う。デジタルの世界はおそろしい。格段によくなったのはドラムの音、逆に多重コーラスは分離が良すぎて厚みが無くなっている。 "Close To You"のコーラスがわたしはとても好きで10CCのあの変態ループコーラス大活躍の"I'm Not In Love"と同じくらい好きなんだけど、う〜ん。でもなんで日本盤はミュージシャン、エンジニアのクレジットはちゃんと掲載しないんだろ。
ひとりの午後、やっと落ち着いてチャック・ベリーのCDを大音響で聴く、といっても自分にとっては大音響ではないが、他家族三名にとってはうるさいらしい から、ひとりのときにしかある程度の音は出せない。真っ昼間、聴いていると、どうせ今日は車に乗る用事もない。呑みはじめる。しばらくするとつまみが欲し くなる。実家からもらった島らっきょをいくつか取り出し、土をはらい、水洗いし、根を手でちぎり薄皮をむき、塩で軽く揉む。削り節を加える。他に何かない か冷蔵庫をのぞくと容器に入った豆腐四分の一丁。容器にたまった水分を全部捨て、塩で揉んだらっきょを豆腐が入った容器に入れ、スプーンで豆腐をつぶしな がららっきょと混ぜる。少しのごま油と醤油を加える。わりとうまい。すこし幸せな気分になる。ごま油はえらい。
新しい眼鏡ができた。遠近両用。文庫本の活字が見える。CDジャケットのクレジットも見える。でも、目を動かすとぼやける。ちゃんと遠くを見るようにする ためにはしっかり正面を向いて見ないといけない。活字を読むときは少し顎をあげてと。乱視も強くなっているみたいなのでそれも矯正してもらった。慣れるま で時間がかかりそう。
田ん
ぼプロジェクト 冨岡三智
オト
メンと指を差されて(12) 大久保ゆう
5 年ぶりのバスラ 佐藤真紀
耳の慎ましさ 高橋悠治