水牛的読書日記2024年8月

アサノタカオ

8月某日 宮内喜美子さんの手製の詩集『台湾土産話的』が届く。濃紅色の表紙のシンプルで可愛らしい本。台湾への旅、そして原住民作家シャマン・ラポガンとの出会いが語られている。

8月某日 東京・九段下の二松学舎大学で写真部同人誌『模像誌』のインタビューを受ける。サウダージ・ブックスの活動について。その後、神保町の出版社クオンに移動し、今度は自分がインタビュアーになって、韓国の詩人パク・ジュンさんにお話をうかがう。詩文集『泣いたって変わることは何もないだろうけれど』の日本語版(趙倫子訳、クオン)の出版を記念して来日していたのだった。

8月某日 姜信子ほか『被災物——モノ語りは増殖する』(かたばみ書房)、大江満雄編『詩集 いのちの芽』(解説大江満雄・木村哲也、岩波文庫)が届く。東日大震災の記憶、ハンセン病療養所入所者の声。いずれも関係者の問いと思いが充満した本。記憶の蓋が開かれる夏のあいだに読みます。

8月某日 和光大学で野外シンポジウム「共生とあそび——Sympoiesisのゆくえ」に参加。石倉敏明さんと森元斎さん、2人の研究者の発表のあと、文化人類学者・批評家の今福龍太先生が応答。今福先生は6月に亡くなった琉球弧の詩人・川満信一さんの詩を朗読し、オリンピック批判の自作バラッド「五輪終ブルース」を歌った。企画者の上野俊哉先生はシンポジウムの司会のほかに、DJ、料理、パーティの演出と大忙し。上野先生の知を「遊び倒す」姿勢にはいつも驚かされるし、学ぶことが多い。学生たちも楽しそうにBBQや焚き火のお手伝いをしていた。帰宅し、上野先生の本『思想家の自伝を読む』(平凡社新書)を再読した。

8月某日 読書会にオンラインで参加。課題図書は中上健次の未完の遺作となった大長編小説『異族』(講談社文芸文庫)。

8月某日 2日間、三重・津の HACCOA(HIBIUTA AND COMPANY COLLEGE OF ART)で夏期特別講座をおこなった。テーマは「境界線のかたわらで——10冊の本を読む」。編集者になる前の学生時代に読み、人生が変わるほどの大きな衝撃を受けた本を紹介。当時はインターネットが普及する前の時代で、大量の情報も見通しもなかった。犬も歩けば棒に当たる式で、直感と偶然の力だけを信じて書店や図書館をさまよい、10冊の本に遭遇したのだった。後から振り返ればいずれも「越境する世界文学」の潮流につらなるこれらの作品を読む時間がなければ、サウダージ・ブックス編集人としてのいまはなかったと思う。抜粋したテキストを、参加者とともにゆっくり時間をかけて講読してみた。今回の夏期特別講座で取り上げた10冊は以下の通り。

1. 金時鐘『「在日」のはざまで』
(立風書房、1986年。のちに平凡社ライブラリー、2001年)
2. 李良枝『由煕』
(講談社、1989年。のちに『李良枝全集』講談社、1993年に収録)
3. 今福龍太『クレオール主義』
(青土社、1991年。のちに増補版・ちくま学芸文庫、2003年)
4. エドワード・サイード『知識人とは何か』
(大橋洋一訳、平凡社、1995年。のちに平凡社ライブラリー、1998年)
5. トリン・T・ミンハ『女性・ネイティヴ・他者——ポストコロニアリズムとフェミニズム』(竹村和子訳、岩波書店、1995年。のちに岩波人文書セレクション、2011年)
6. 片岡義男『日本語の外へ』
(筑摩書房、1997年。のちに角川文庫、2003年)
7. 黒川創『国境』
(メタローグ、1998年。のちに完全版・河出書房新社、2013年)
8. 宮内勝典『ぼくは始祖鳥になりたい』
(集英社、1998年。のちに集英社文庫、2001/2023年)
9. J・M・G・ル・クレジオ『はじまりの時』
(村野美優訳、原書房、2005年)
10. 津島佑子『ジャッカ・ドフニ——海の記憶の物語』
(集英社、2016年。のちに集英社文庫、2018年)

8月某日 とある出版企画の取材中に、バリ島の祭礼を調査したフィールドワークの貴重な映像を見せてもらった。結婚したばかりの頃、バリの宗教を研究する妻とまだ赤ん坊だった娘とともにウブドに滞在し、郊外の村のお寺で深夜のバロンダンスを見学した記憶がよみがえってきた。あの頃は、バリ島に関する研究書もいろいろ読んだのだった。

8月某日 東京・神保町の韓国書籍専門ブックカフェCHEKCCORIへ。「チェッコリ書評クラブ」で書評講座の講師をつとめている。対面での講座の最終回で、いよいよこれから参加者の書評作品を本格的に編集し、ZINEを制作する予定。これはきっとよい本になるだろう。参加者のみなさんから、韓国文学のいろいろな情報を教えてもらえるのがうれしい。

8月某日 海の文芸誌『SLOW WAVES』issue3(海辺のドライブ)を読む。

8月某日 斎藤真理子さん『隣の国の人々と出会う——韓国語と日本語のあいだ』(創元社)を読了。すばらしい本だった。「口の中に起きる風」を確かめるところから朝鮮語との出会いを省察していることからわかるように、からだを抜きにしない言語観が語られているところに強く惹かれる。「들려(聞こえる)」の発音に関して、「声にすると、関節にすっと風が通るような気がする。今まで虫干しをしたことのない骨と骨のあいだに、風があたる」と表現している文章はすごい。また斎藤さんの詩学において、もっとも重要なエレメントは「風」なのだろう。そんな気づきもあった。江戸時代の儒学者で対馬藩の朝鮮外交に尽力し、ハングルを深く学んだ雨森芳洲という偉人のことを知れたのもよかった。