子どもの頃読んだフランツ・リストの伝記に、夜明けにピアノの鍵盤に手を置いて、眠っている人を起こさないようにそっと鳴らす場面があった。両手の指を鍵盤に触れ、少しずつ位置を変えて鳴らす、片手の軌跡の地図に、他の音の線を重ねる、これが演奏の、また作曲のイメージにもなる。朝目覚めた時、暗い部屋の眼の前にそんなイメージと共に音が聞こえるような幻を見ることもあった。
年とともに、そんな朝も少なくなった。こうして身体から音楽が抜けていくのかもしれない。それでも、楽器を前にしていると、イメージもなく、指が動くこともある。腕のどこかに溜まっている記憶か、それとも筋肉の微かな揺らぎが作り出す響きを、耳が確かめながら音にするとともに、音の線が変化していくイメージを編んでいく。
小松英雄の「連節構文」から思いついたことだが、あらかじめ構成を考えることなく、フレーズを継ぎ足していく。一つのフレーズで使っていなかった音に触れながら、進んでいくと、曲がりくねった音の道が残る。全体の構成がないだけでなく、どこで始まり、どこで終わってもいいような音から音への歩み。
道々拾っていく音は、楽器の音域の範囲で、碁盤に石を置いて埋めていく手を想像しながら、残るかたちよりも、離れていく手の動きの方を見ながら、置いた音の跡を吹き消していくのが、即興で、演奏で、作曲であるかもしれない、と感じることもできる。
日本の昔に連歌とか連句があったのも、「一歩もあとに帰る心なし、行くにしたがひ心の改まるは、ただ先へ行く心なればなり(三冊子)」と言われたように、止まらない時、変化する世界を生きる、一つの行き方だったかもしれない。