吾輩は苦手である 8

増井淳

 吾輩は寒いのが苦手である。
 寒いところに少しいるだけで、手先足先が冷え切ってしまう。
 その状態が続くと、つぎにはお腹や頭が痛くなってきて、やがて悪寒がしてくる。
 まったく寒いのはいやだ。
 これでも吾輩は雪国育ちである。
 小さい頃には、屋根からおちてきた雪に身体ごと埋まってしまい、死にかけたこともある。その時は、たまたま父が近くにいて、雪に埋もれた吾輩を手で掘り起こしてくれたので、助かった。

 苦手なものを考えると、あまりにも多くて、いささかうんざりする。
 毎日のようになんらかの苦手なものに遭遇するのだ。
 得意なものがあれば、苦手なものも忘れられるかもしれないが、吾輩にはこれといって得意なものがない。
 毎日毎日、苦手なものに包囲されている。

 そうか、要するに
 吾輩は生きることが苦手
 なのだ。
 
 でも、よく目にしたり耳にしたりすることばには、人生に肯定的なものが多い。
 いわく「やればできる」「夢を求め続ける勇気さえあれば、すべての夢はかなう」などなど、楽天的なことばは数多くある。
 それにひきかえ、吾輩のように苦手なことばかり、というような言動はあまり見られないように思う。
 ブッダの「一切皆苦」くらいか。
 そう思っていたら、詩人の松下育男さんがこんなことを書いていた。
 「生きてゆくっていうのは、思い通りにならないことを、いかに辛抱して、我慢していられるかっていうことなんだと思うんです。
 程度の差はあれ、みんなそうなのだろうなと思うんです。
 すべてが思い通りに生きて来られた人なんて、たぶんどこにもいない。みんな、どうしてこうなってしまうんだろうと毎日思いながら、それでも生きてゆくしか仕方がない」(松下さんのnote、2024年12月7日)
 あるいは、カフカの次のようなことば。
 「将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
  将来にむかってつまずくこと、これはできます。
  いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです」(フランツ・カフカ、頭木弘樹編訳『絶望名人カフカの人生論』新潮文庫)
 松下さんやカフカの文章を読むと、なぐさめられる。というか、ここに仲間がいるなあとうれしくなる。

 生きるということは、次々と襲ってくる苦手なものごとを、かきわけかきわけすすむことだ。次にどんな苦手なものがくるかわからないし、自分自身も変わっていく。
 
 人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天(永田紅『日輪』砂子屋書房)
 
 という短歌がある。短歌のことはよくわからないのだが、苦手なことだらけの吾輩は、心の中でたびたびこの歌を口ずさむ。
 もうすぐ苦手な歯医者に行く日である。きっと痛いだろうなあ。行きたくないけど、吾輩の人生であるから逃げるわけにもいかないのである。