中心のない触れ

高橋悠治

全体から部分に降りていくのでは、細かい隙間を埋めていくにつれて、動ける隙間が減っていく。20世紀後半の音楽は、そんな感じの息苦しさがあった。それとは逆に、小さな動きから始めて、それがどこへ行くにか見る、危ないと思われる時だけ手を出すようにして、ある範囲のなかで、同じ動きを避けながら、どこまで行けるか。

音の同じ動き方が、テーマとかモティーフとか呼ばれて、それを少しずつ変えながら、音を組み立てていくのが、構成であり、作曲の技術だったが、そうでないやり方は、なかなか思いつかないし、よくはできない。

それでも、違う動きを連ねることからはじめたらどうなるか。そんなことを、ぼんやり思いながら、試しに書いてみる。最初は1本の線、それからそこに、違う線をあしらってみる。

違う線には違った時間がある。一つの時間のなかで、それぞれの線の屈曲を決める代わりに、各々に線を決めてから、それらを合わせてみるとどうなるか。一本の線に違う線をあしらってから、初めの線なしで、第二の線に違う線を足してみる。こうして、ある時間の枠に、また別な動きが入ってくる。こんな変奏の成り行きを考える。

連歌から思いついた音の遊び。動きのそれぞれが次への扉や窓になる(<寺田寅彦:連句雑俎)。だが、始めも終わりもない無限変奏というよりは、循環する流れのなかに、偶発的な光の点が見え隠れして、それらが全体を変えてゆく、予想されない変化というイメージ。

安定した低音の上に華やかな変化を見せても、装飾は表面に止まって、全体は動かない。雲や水のように軽く浮かび流れる線。音楽で使われてきた形や響きの技法には頼れない、と思っているが、そういう技術から離れて、自由に動き回る線を、作るというより、できていくのを見守るだけ、というように、意識に先立って手が動いていくような、それでいて慣れた働きではない、知らない動きの水準を、どうやって保っていられるだろう。