本小屋から(14・最終回)

福島亮

 本小屋を閉めることになった。2年ほどここで本を読み、疲れたら散歩をし、暖かい日には木の実を植木鉢に蒔き、喉が渇いたら珈琲を淹れたりしていたのだが、離れたところに引っ越すこととなったのである。

 本を段ボールに詰める。本は重いからやや小ぶりの箱を70箱ほど業者に持ってきてもらい、1日に4箱ずつ詰める計画をたてた。でも最後まで背表紙が見えるようにしておきたい本はどうしてもあるし、箱詰めする気分になれない時もある。少しずつ、本棚に詰め込まれていた本を崩していく。すると不思議なのだが、どんどん記憶があやふやになり、なんだか頭がぼうっとし、しまいには視力まで落ちてきたような気がしてくる。どうやら小屋の生態系が崩れ、環境が悪くなっているようなのだ。

 環境が悪くなると、とたんに不機嫌になり、意地悪をしてくるのが本である。ある本が急に必要になる。きっとそうなるだろうと思って取り分けておいた本なのに、いくら探しても出てこない。仕方ないから諦めて、近所の図書館にある本ならばそこに行ってコピーをとり、図書館になく、「日本の古本屋」で廉価で売っているものは注文するのだが、郵便受けに投げ込まれた本を回収する頃には、そもそも当の本を参照する気持ちが冷めてしまっていたり、ひどい話ではあるのだが、受け取った包みを開けようと鋏を探していると、くだんの本がちゃっかり近くにあったりする。

 そんなふうに本にからかわれることが時たまならば微笑ましいが、一日に二度も三度もあると考えもので、それならばこちらにも用意がある、小田急線に飛び乗り、代々木上原で降りて、よく行く駅近くの古本屋に何食わぬ顔で入る、のではなくて、まずは店の前に並んでいる百円二百円の本を心ゆくまで物色するのである。反抗するならばすれば良い。それならばこちらも新顔を入れるまでである。

 風にさらされどこか丸みを帯びたその小さな野外本棚で、加藤楸邨の『ひぐらし硯』を見つけたのはそんな時だった。『ひぐらし硯』という、このどこか剽軽で可愛らしい題名の本を、私はどこかで見たか、聞いたか、読んだかしたことがあるような気がするのだが、でも、手に取ってみるとやはりお初にお目にかかる本だった。深い緑色のやわらかな布張りの装丁は安東次男によるもの。開けば硯の写真が並んでいる。硯といえば書道セットのなかの素朴で小さな硯しか知らなかったのだが、それとはまったく異なる重量感のある硯、というか石が並んでいる。おや、と思うのは最後の写真。白桃を模した水滴だ。

 加藤はこの本のなかで、少年の頃、川で石を拾い、机の上に並べ、それをじっと見ているのが好きだったという。机の上に置かれた石は、やがて兎になり、犬になり、ときには犀にもなった(「時間的漂泊」)。そんな石との睦まじい関係が本書を最初から最後まで貫いている。石の皮に包まれた真新しい「子石」。そのむっちりとした、どこか美味しそうな様子を描く俳人の筆は、どこまでものびやかで、いくらでも読んでいたくなる。

 もうじき離れる本小屋の近くにある寺の境内を歩きながら、私が拾ったのは子石ではなくて、ムクロジの実だった。乾いた果皮は薄いセルロイドを思わせ、丸っこいその実は金の鈴みたく見える。果皮を割ると、なかから出てくるのは微かな産毛に包まれた黒い種だ。この種で羽子板遊びの羽根の、あのつやつやした先端部分を作るのだという。

 ポケットの中に入れたその実を、暖かくなったら引越し先のベランダで蒔いてみようと思う。水を垂らした硯が、石から銀河に変わるように、この小さな種が水を吸って、多摩川の近くの風景をふっくらと芽生えさせてくれるかもしれないから。