先月末に大阪を拠点とするガムラン団体:マルガサリの公演に出演した…というわけでその備忘録。
マルガサリ ガムラン公演
「ふるえ ゆらぎ ただよう」
日時:2025年3月29日、14:00~
会場:クリエイティブセンター大阪
マルガサリはこの公演のためにインドネシア国立芸術大学ジョグジャカルタ校で教鞭を取るヨハネス・スボウォ氏を招聘した。プログラムには書いていないが、氏は芸術一家の生まれで、兄弟たちも皆著名なダランや音楽家としてスラカルタで活躍していた。私もスラカルタに留学していた時代から氏の活動には接していたので、今回もマルガサリからのオファーがある前からこの公演のことについて聞いていた。というわけで、今回この公演に参画できたのはとても嬉しい。
会場は名村造船所大阪工場の跡地である。公演第1部のサウンド&パフォーマンスは氏とマルガサリの共作で、旧総合事務所棟4階にある旧製図室で行われた。天井は低いが、20m×60mのだだっ広い空間である。その60mの中央を貫くように空間が空けられる。これは川なのだとスボウォ氏は言う。この川の突き当り奥1/3のスペースがメインの上演空間でガムラン楽器が広げられ、ジョグジャカルタの美術家ティアン・プトラ・マハルディカ氏が描いたタペストリーで囲まれる。それは龍がガムラン楽器を弾いている絵だ。真ん中1/3の空間には観客用の椅子が「川」の両岸に置かれ、また、クノン(壺形ドラ)などがここに1つ、あそこに1つとまばらに置かれている。そして、反対側の奥1/3には何も置かれていない。彼方の空間という感じ。この観客空間と彼方の空間の間にもタペストリーが垂らされ、結界を作っている。
第2部ではベトナムのゴングを1つずつ手にした行列が、葬礼曲や水牛供犠曲を奏でながら製図室から外階段を通って第3部の場所へと下りていく。ベトナム・ゴングをめぐる音の文化を研究する柳沢英輔氏とマルガサリが構成した。ゴングの音がずっと下へ降りていくと、いったんそこで休憩のアナウンスがあり、観客も地上へ移動する。
第3部は船渠(ドック)の水上及びその両岸が舞台。黒川岳氏が造形したいくつかの水上ステージ(筏のような形のもの、たらい舟のような形のものなど…)に楽器を載せ、両岸にもガムラン楽器がいくつか置かれる。それぞれ鳴らしていた音が水上を流れ、次第に伝統曲のメロディになったり即興音楽になったりする。そして、一番大きなフロートに載ったスボウォ氏がそれに呼応して踊り、さらに両岸に分かれて立つ私とタイ舞踊の踊り手も入って互いに反応し合うように踊る。こんな風に、造船所の跡地を巡るサイトスペシフィックな公演としてデザインされていた。
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第1部は、彼方の空間から奥の上演空間に向かって、川を一直線に下ってくるように出演者が進んでくるところから始まる。行列の先頭に供物を持った人が、次に舞扇を手にした踊り手たちが、さらに演奏者が続く。舞台奥中央には大ゴング(ガムランセットのゴングとは別にある)が吊られ、そのゴングに吸い寄せられるようにして歩みを進めた。それは龍が川を下ってくるように見えたかもしれない。
舞台空間に至ると演奏者たちは供物を中心に円になって座り、踊り手はその後ろに一列に並んで座った。ここで口上として、マルガサリが活動拠点の1つとする木津川~蛇吉川にある龍神の伝説、このドックとをつなぐ水の道のイメージが語られ、続いて祈りの歌が唱和された。グレゴリオ聖歌のようにも聞こえるこの歌はスボウォ氏も実践するジャワ神秘主義の信仰の歌で、古い時代にこの世にもたらされたものという。当然エンターテインメント用の歌ではないが、今回の公演のために許されたとのことだ。この歌は人がいかに生き、いかに死ぬかについての教えであり、この歌の調べにのって踊り手は座りながら扇を手にゆっくりと舞う。日本の舞扇/扇子には自他の結界、彼此の結界を作る儀礼的な役割があり、何かしら日本的なスピリットをここに込めたいというスボウォ氏の意向に叶っていたと思う。
歌の唱和が終わると、踊り手たちは意味のない言葉を発しながら三々五々、舞台奥に吊るされたゴングのさらに奥に引っ込む。ここは、いわば丸見えの楽屋である。その後、舞台空間ではガムランと声と音の激しい即興が始まり、エネルギーが渦巻き、タケオが四股を踏む。先の歌で何かがタケオに降りてきたのかもしれない。このエネルギーの渦が静まり、演奏者がバラバラに窓際に立ったり、体操したり、声を発したりして日常の時間が流れ始める。外の通りを走る車の音が耳に入るようになる。
ドアがバンとなって静かになると、スボウォ氏は吊ってあるゴングの方に行き、さざ波のような音を響かせる。それに惹かれるように踊り手は舞台の方へ、彼方の方に向かって空間いっぱいに拡散してゆく。しかし、潮が引くようにまたガムランの舞台へと押し戻され、再び背後から押されるような音とともに「川」の中を彼方の空間へと流れていって、ベトナムのゴングへとつながっていく。
音/音楽の説明があやふやで申し訳ないが、どの場面でも様々な音や声が周囲の音と入り混じって身体にすーっと浸透してくるような気がしていた。人間が出す音・声なのに、なんだか森の中で動物が沢山いるような光景を想像していた。
踊り手の動きは全体を通じてすべて即興で(もちろんスボウォ氏による指示構成はある)、皆の背景・素養はバラバラなのだが、少なくとも動いている私には不協和音のようなものが感じられなかった。皆で踊っているのにまるで1人でもあるかのような静けさと、全体への没入感があった。事前のワークショップでやったのは、ゆっくり動くこと、内から何かが沸き起こってきたらそれに従って動くこと、他者や周囲の音に反応することくらいなのだが、そこにスボウォ氏が介在することが決定的に重要だったように思う。
第3部、ドックでは本当の水が目の前にあった。第1部でイメージの中を流れていた川がここに行きついた感があった。リハーサルの時は風が強すぎて、また水上のガムランと岸のガムランの距離が離れすぎてしまって音がかき消されてしまったが、本番では対岸や水上から聞こえてくる音の響きがきれいで、音がキラキラしていた。スボウォ氏のエネルギーが筏の上で炸裂していて、氏が水に落ちやしないかと少しハラハラした。他の踊り手もそう感じていたようで、終了後にそのことを尋ねた人がいたのだが、中からあふれてくるものがあったから怖くはなかったと言っていた。けれど、本当は泳げないから、怖いはずだよねとも笑っていたが…。
自分の視点から見た公演の概要なので、このエッセイを読んでも全体像はつかみにくいだろうと思うけれど、得難い音体験、空間体験をしたなと思っている。