上がると畳がべそっと沈み込む。床は全体重をかけたら踏み抜いてしまいそう。土壁は部屋の四隅が欠け落ち、上がり下りする階段の上の壁には斜めに大きな亀裂が入る。
母の家がきびしい状態になっているのは数年前から気がかりだったのだけれど、目の前のことに引っ張られて何もできずいた。でも、また大地震がきたら、線状降水帯が居座って大雨が何日も降り続いたら…たぶんもう持ちこたえられないだろう。ここまできたら、改修をやるっきゃないと重い腰を上げた。
2回の大がかりな増改築で手は入れているものの、最も古い部分は築66年。傷みの激しい和室の畳を上げてシロアリにやられている柱や床板を入れ替え、土壁を落として石膏ボードに張り替え、腐食している鉄骨ベランダを切り落とせば、相当重量は軽くなって地震もなんとかやり過ごせるでしょう、ということになった。箪笥を移動し、押入れの中を空にする。
屈強な3人組が1日で鉄製のベランダを分解し跡形もなく運び去ったあと、無口な大工さんが一人やってきて、来る日もくる日ももうもうと埃の立つ中で土壁を落としている。夕方行くと、庭先に仮置きされた土嚢袋が日に日に増えていく。持ち上げようとしてもビクともしない。いや土ってこんなに重いのか。この四方土壁の和室で、親子4人が川の字になって寝ていた。私は泥を固めてつくった家で育ったのだと、いまになって気づく。
手の届かない天袋の奥の荷物は、工事を取りまとめてくれる人が全部出して隣の部屋に運んでくれた。いやはや、その荷物たるや。赤茶けた段ボールに「小学生のとき読んだ本」とつたない黒マジックで書いてあるのは私の字に間違いない。「祥子想い出の品」というさらさら縦書きは母の文字。3つの大きな段ボールには父の字で、「雛人形①②③」と番号がつけられ、人形を詰めた箱が振り分けられている。その上の埃まみれの薄い段ボールは、うわぁ弟の鯉のぼり! 油絵の絵の具箱、高校のとき友だちをモデルに描いたクロッキーブックの束、小学校のころとっていた学習雑誌『科学』の付録、高校のころの日記とも独白ともつかないノートの束(恥ずかしい)…。うぇー、ぎゃぁ、なんで〜、えぇっ!と胸の中で叫び声を上げていた。
箱を開きひとつひとつ確かめていく。もうすっかり忘れていた物がつぎつぎ現れる。でも確かに見覚えがある物たち。誰かにもらって興味もなくしまい込んだと思われるお土産以外はみんなそうだ。記憶に残っていなかった物、それも取るに足らないようなささやかな物が、鮮やかに場面や会話までを呼び起こしていく。一方で、ずっと忘れずに残っていた記憶が、目の前に突然戻ってきた物によって増幅されるような感覚もある。人の記憶って不思議。ほとんどは闇の中に埋もれていくのに、そこだけスポットライトを浴びたように明るく輝いて長く頭の片隅に残り続ける場面があったりするのはなぜなんだろう。
たとえば、7歳か8歳のころの子どもの日の記憶。庭にゴザを敷いて父と弟といっしょに、明るい陽射しの中で風に泳ぐ鯉のぼりを仰ぎ見たあの日の清々しい気持ちは、長く記憶にあって5月の青空を見るたびにふっとよみがえってきた。私は弟の鯉のぼりが好きだった。特に山吹色に縁取られた上にコバルトブルーの鱗模様が鮮やかに浮き立って見えた真鯉が。人形嫌いだった私にとってお雛様というのはちっとも心の踊らないものだったから、うらやましく眺めた感情が鯉のぼりの思い出が逃げないようにぴっちりと記憶の箱に蓋でもしたのだろうか。
埃を払って出した鯉のぼりを床の上に長く広げる。鮮やかな黄と青はあの日のまんまだ。でも雨に濡れたせいなのか、黄色の尾びれはあちこち色落ちした墨色がついて汚れている。こういうのがきれいな記憶と現実の落差というものなんだろうか。
もういまは、木綿の生地に手染めしたこんな鯉のぼりはないかもしれない。銀色の鱗模様は細筆のフリーハンド。職人さんが一筆一筆描いたのだ。折りたたんでゴミ袋に入れるが、思い直して拾い上げる。しばらくは再会をよろこびあったっていいんじゃないか、と思う。
「小学生のとき読んだ本」と書かれた箱の中からは、親しんだ本がつぎつぎと出てきた。すべての表紙に見覚えがある。小口が茶色に焼けていたり、見返しにしみができていたり、一冊一冊が60年という歳月を背負っているみたいだ。シャーロック・ホームズのシリーズは何冊も読んで、ホームズが暮らしていたのはベーカー街221番地ということまで覚えていたっけ。見返しに自分で「おじいちゃん、おばあちゃんよりクリスマスプレゼント」と書いたものもあった。
何冊かは表紙を見たとたん、買った日の記憶が物語みたいに広がった。『あしながおじさん』を買ったのは、歩いて10分くらいの近くの商店街の本屋。父と弟と3人で行くと店の中には、コートやジャンパーを着込んだ立ち読みの人がぎっしり詰まるようにいて熱気がこもっていて、背伸びするように本棚を見上げてこの一冊に決めたのだった。『小公子』は七夕祭りを母と弟と見に行き、確か駅前のデパートで選んだもの。ワックスの匂いのする木の床を歩き回って、迷って決めたのだった。街には大きな書店があっていつもにぎわい、そんな本屋がデパートの売り場にも出店していたのだ。みんなが本を読んでいた時代だった。
すっかり消えていた記憶を大きな風呂敷でも広げるみたいにふぁっと鮮やかに見せてくれたのは、手づくりバッチ。昔の小学生がつけていたような直径4、5センチの色とりどりのプラスチックフレームの丸いやつ。その中に一点一点イラストを描いて文化祭のときの美術部の出し物にして、たしか50円くらいで売ったのだった。どれもがかわいいティストでちょっとシュール、ポップ・アート風といろいろ。反応は上々でけっこう売れた記憶がある。なんと健気で無邪気な女子高生だったんだろ。もう50年も前の思い出だ。このアイデアを出したのは仲のよかった友だちで、いまだにときどきお茶を飲んだりするので写真を送ったら、「きゃー」と声にならない叫び声が返ってきた。
バッチは校門前の小さな文具店に注文したのだった。「こんなにたくさん何に使うの?」と店のおばさんに聞かれ現物を見せたら「あら、かわいいこと!頑張んなさい」といわれたような。木造2階建てのこじんまりとした店構えや会話が、ふっと立ち上がった。バッチが残っていなかったら、思い出すことはきっとなかっただろう。友人は「今度見せて」というので、「制作者に戻す」と返信した。彼女がつくったのはどれか、すぐわかるのがおもしろいところだ。
モーツァルトの歌劇『魔笛』全幕のピアノ譜が出てきたのには驚いた。奥付を見ると母校の蔵書印が押してあるではないか。あ、そうか、これは確信犯。書庫から黙って持ってきた一冊。ごめんなさい。高校の一時期、ドイツリートを聴いていたことがあったから、勢い余ってオペラもと手が伸びたのかもしれない。私が通っていたのは宮城県立の女子高校だったが、そもそもは新島襄が学校長の男子の中等教育機関として始まっていて、明治期に建てられた木造の洋館が移築され図書館になっていた。書庫を見たいとお願いすると、きれいな顔立ちのほっそりとした司書の先生が「どうぞ」と許してくれて、いまにも崩れそうな階段を上がっていった。分厚い窓枠のガラス越しに入る陽射しを背中に受け、静かな書庫をそろそろと見て歩くのは至福のひとときだった。
クリーム色のクロス張りに赤でタイトルが刻印された音楽の友社のきれいな本で、蔵書印は昭和41年になっている。それにしても地方の普通科しかない女子高で、「世界歌劇全集20巻」を入れていたとは。学校の誰が選書をしていたんだろう。そしてあの明治期の洋館を残すことはできなかったのだろうか、とも思う。本は、処分はせずに手元に置いておくことにした。
というわけで、恥ずかしい物は廃棄したが、物を減らしていくのはなかなか容易ではない。お雛様の箱をそっと天袋に戻して、きれいによみがえった和室の畳にごろりと横になる。転がって眺める空に、あぁと思わず声が出た。幼いころ何度も眺め見た空と変わらない空が広がっていたから。自家中毒の発作で具合が悪くなると子ども用の小さな布団に寝かされ、この部屋で回復するまでの数日間はぼぉっと空を見ていたっけ。過去の物は全部生まれ育ったこの家に投げ捨て引力の圏外に出て生きてきたつもりだったのに、そんな物たちに記憶を呼び戻され、眠っていた思い出をひとつひとつ確かめている私がいる。