朝の光が、海と街をまとめて背負ったような稜線に薄く差してた。ビジネスホテルを出て坂をのぼって、僕は六甲山を目指す。標高九百三十一メートル。数字だけを見ると、決して高い山やない。けど、神戸の街から見る六甲山は神戸の背骨のようやった。
そんな街と一緒に呼吸する山へはいくつかのアプローチがある。車で上る者、ケーブルカーに乗り込む者、そして、僕のように歩いて行く人も少なくない。けど、この山は地元のもんにとっては、遊びで行くことの多い山や。みんなが遊ぶつもりで六甲山にのぼっていく。でも、いまの僕はあんたと向き合うために向かってる。妙な気持ちや。登山道の入口にはイラストの描かれた地図があって、六甲山牧場や高山植物園の場所が示されてた。あんたが電話で言うてた高山植物園までの道は迷いようがないと思う。真っ直ぐな一本道や。
僕は弾むような気持ちでもなく、沈むような気持ちでもなく、ただただ、歩き続けた。ほんの少し前を見ながら、できるだけ何も考えんようにしながら足を交互の一歩ずつ進めた。ぼんやりしてると、ついついあんたのことを考えてしまうからな。そうならんように、僕は舗装道路に落ちている折れた枝を見つめ、飛ぶ鳥を見上げ、肌を刺す虫を叩きながら歩いた。そうやって歩くと、子どもの頃何度も訪れた六甲山が、ただ遊ぶための山ではなく、僕らの暮らしを支えたり脅かしたりしてきたんやろな、という気持ちになった。
急なカーブをスポーツタイプの赤い車がけっこうなスピードで走り去る。ほんの少し危険を感じて、僕は立ち止まり道路の隅に寄る。そして、振り返ると神戸の街が広がり、その向こうに青い海が広がっていた。
耳を澄ますと、街のざわめきが聞こえてくるような気がしたんやど、それはきっと勘違いや。風が街のほうから吹き上げてくる。砂埃が目に入る。一瞬、視界が遮られ、僕はその場にうずくまる。車が走ってくる音が聞こえて、うずくまったままじっと車が通り過ぎるのを待つ。薄く目を開けると、そこに見えたのは車ではなくオートバイやった。運転する男の後ろにはヘルメットから長い髪を揺らしている女が乗ってた。しばらく、目をしばたたかせて涙で埃を流すと、僕はゆっくりと立ち上がった。そして、持っていたペットボトルの水でハンカチを濡らして、目の周りを拭く。視界に飛び込んできたのはバス停の標識やった。
高山植物園はバス停の近くや、という声が聞こえ、新幹線の窓に映った自分の顔を思い出した。この近くに、あんたの「どうでもええ」が置かれているんやと僕は思った。
また風が吹いた。草の匂いと、バイクが残したオイルの匂いがした。その合間からあんたの匂いがしている気がした。(つづく)