わたしたちの記憶と知の実体は、つまるところ皮膚感覚にあるのだと思う。そして、皮膚感覚のずれは言葉の差としてあらわれる。
被ばく者という言葉、「被」という漢字には、爆風や熱線、放射線にある生命の皮膚が晒されたこと(exposed)を示しており、出来事のまさにその瞬間、すなわち出来事からみた現在の時制に属することも、言外に触知されるだろう。たとえば英語の場合、被ばく者が生きているならatomic surviverとなり、その言葉は出来事とのコンタクトではなく出来事を生き延びたという事実を示しており、また、出来事からみた未来の時制に属している。一方死者であればatomic victimsすなわち過去の時制に属する言葉になるのかもしれないが、そのどちらも、被ばく者たちの生において連綿とつづく「いま」のことを、傷つき、治癒し、ケロイドとなり、腫瘍や滲みだす体液、痛さ、痒さとして現在に現前しつづけ、変容しつづける皮膚の感覚のことを語らない。
北アメリカで核の歴史に関する仕事をはじめたとき最初に感じたのは、やはりこの皮膚感覚の違いだった。広島で、長崎で、ビキニで、エニウェトクで、被ばく者たちの皮膚は乾いていたか、それとも湿っていたか。そのような想像力を持ち得た人々は一人もいなかったのだろう、思わずそう断じたくなるほどの渇きが、皮膚と大地と生命からの断絶が、トリニティサイトを、ロスアラモスを、そして数万人ともそれ以上とも数えられる米国内のダウンウィンダース(核実験やウラン採掘などで被曝し健康被害を被った人々)を生み出したフォーコーナーズ全域をもうひとつの荒野に──記憶の荒野に変えていた。
ショッキングなほどに少数ではあっても比類ない強度をもつ原爆表象(はだしのゲン、丸木位里・俊、土門拳、東松照明……)に触れてきたわたしたちにとって、地上に出現した太陽に灼かれ、放射線によってDNAレベルで破壊されたいきものの皮膚がどうなるか、想像することはさほど難しくない、少なくともそう思いたいが実際はどうか。
ごく最近になってマーシャル諸島を二度、訪れる機会に恵まれた。その少し前、詩人・アーティストのキャシー・ジェトニル・キジナーの詩に触れ、その皮膚感覚の生々しさに衝撃を受けた。ジェリーフィッシュ・ベイビー(くらげの赤ちゃん)、という言葉がある。放射線被曝の影響によりまるでくらげのような姿で生まれてくる新生児のこと、だからマーシャルでは一歳の誕生日が世界中のどこよりも特別なのだ、と教えられたときの皮膚感覚と、灼けつくような感情。ビキニ島で、一人の新しい友だちからマロエラップに日本軍が設けた「斬首穴」のことを聞かされた真昼の、抉られるような罪の感覚を忘れることは決してない。それら皮膚感覚は、その友人に頼んで生まれて初めて彫ってもらった二の腕の小さな刺青を通して、わたしの皮膚に刻まれ、変容しつづける「いま」となった。
キジナー文学の衝撃は一過性の嵐などではなく、「いま」の時制で吹き荒ぶ、いくつもの爆心──マーシャル諸島におけるドイツの植民地化とつづく日本の植民地化と戦争犯罪、戦後米国による核の暴力と実質上の植民地化、そして植民者たちが南半球地域に押し付けた気候変動という爆心──から、一時も止むことなく吹きつける烈風だったのだ。その風は決してわたしたちを、わたしを赦すことはない。そことここで傷はいまもひらき、皮膚が乾くことはない。
爆心地へ向かうということは、「爆心」という語彙を見失うことだ。いくつもの爆心──残虐行為の中心としての──がある、というとき、それはもはや一つの中心たりえず、過去と現在と未来におけるいくつもの暴力の波紋が干渉しあって互いを増幅し、ときに打ち消しあいながら拡散していく広大な海原というほかない。
ではなぜ、ある爆心はよく知られており、他方の爆心にはだれも注意を払わないのか。認知の差が犠牲者の数や残虐さの程度(そんなものを測る尺度はない)、システマティックさや稀さとは実質上の関係がないことは、それぞれの出来事について注意深く見ていけばほぼ自明といっていい。ソンタグやセゼールを引きあいにだすまでもなく、ほとんどの場合その差は、参照回数や視覚表象の頻度の差にほかならない。たとえばハリウッドの大手スタジオがホロコーストを描くことはあってもナクバを描くことは決してない(もちろんイスラエル建国の物語を描くことはあるにせよ)という事実は、この差と直接の関係がある。
アートコレクティヴ「爆心へ/To Hypocenter」はいま書いたことの少なくとも一部と、ほか四人、川久保ジョイ、小林エリカ、竹田信平、三上真理子との交差する関心やずれを最大限に活かしつつ、いくつもの「爆心」を、移動と偶然の出会い、公共空間におけるヴァンダリズム(野蛮行為)によって接続する試みとして始まった。
初期の問題意識としては日本における原爆や核表象の少なさ、あるいは見えなさがあった。いまだ一部の政治家たちが標榜する「唯一の被爆国」という語りや、アジア太平洋地域における日本の侵略と優生思想を埋め立てながら作り上げられた被害史観をいかにして相対化し、同時に自身の活動と表出が避けがたく帯びる侵襲性を自己批判しつづけるか。だれの手にもあまるそれらの課題について、最近わたしたちは、指針となるマニフェストらしきものを書き上げた。そして運動のひとつのあり方として、いくつかの「爆心」を一筆書きでむすぶバスの旅を構想することになった。
奇しくも日本列島は盆の季節を、死者と祖霊たちの季節を迎えようとしていた。
(つづく)