頑張れ、私。

植松眞人

 もう、何年この仕事をしているのだろう。頭のいい仕事だと思われているので、いろいろ聞かれることはあっても、こちらから質問することはあまりない。覚えることばかりうまくて、物事をつなげて筋道をつけることは得意ではない。それなのに、行政書士という仕事に辿り着き、書類と相談ごとに追われる毎日になってしまった。
 最初は少し大きめの行政書士事務所にいて、下働きのような仕事ばかりしていた。まだまだ男と女の働き方は明確に違っていて、下手に資格を持っていると、自律した女性だと持ち上げられて、うまく使われる時代だった。男女雇用機会均等法が施行されたのは、私が大学に入り、法律の勉強をし始めた頃。自分が世の中に出る頃には、仕事上の男女差別などすっかり解消されていると思っていたのが大きな間違いだった。
 最初の行政書士事務所は、地域でも古株の名物所長がいるところで、効率ばかり追い求め、扱いやすく筋道の決まった相談事にだけ特化していた。手間のかからない許認可申請や、決まった書式の相続書類を大量処理し、手数料のように依頼料を受け取る。こうしておけば、処理期間も読めるし、手に入る報酬もしっかりと読むことができる。
 そんな事務所にいたおかげで、突発的でややこしい案件は受けずに済んだが、学生時代に思い描いていた、世の中の役に立つ仕事をしているという感覚は早々に消え失せた。
 独立して自分の事務所を持ったのも、損益分岐点を把握して、ライフワークバランスをしっかりと考えられるようになったからだ。泥沼になりそうな相続トラブルからも、金銭に絡んだ揉め事からもうまく逃げおおせて、今は多いといえば、内容証明の作成や、軽度のハラスメント相談だ。ハラスメントに関しては、命に関わるようなややこしいものは避ける。できれば、「肩を触られた」「抱きつかれそうになった」という程度の軽いものを受ける。相談者のほうだって、多少自分にも落ち度があると思っている。それを「落ち度なんてない」と必死で言い聞かせ、「いいわね、あなたは被害者なの。内容証明に証拠なんていらない。あなたが嫌だった、と言えばそれが根拠になるのよ」と説得する。ひとまず状況をすべて話させて、相手に内容証明を送る。男はみんな弱い。妻子に知られたくない。会社に知られたくない。その一心で、書類が届けばすぐにでも謝ってくる。こうなれば後は、裁判にする必要もなく、やり取りの中で適当な落としどころを見つければいい。行政書士費用が手付金で二十万円、後は依頼者の女性に十万円でも二十万円でも支払われれば満足してくれる。
 今回もそんな軽い気持ちで内容証明を送り、いざとなったら追加の書類作成でもして、すぐにでも相手から連絡が来るだろうと踏んでいた。それなのになんだ、こいつは。書類を見ていなかったと電話連絡を入れてくるのはいいのだけれど、なぜ本人ではなく妻が電話してくるのだ。妻に知られたくない状況だからこそ折り合いがつきやすいのに。そして妻に知られた場合、相手は混乱しているから、解決金も引き上げやすくなる。
 それなのに、電話をしてきた妻と名乗る女は冷静で、しかも「何があっても平気ですから」と言い放った。平気ってどういうことですか、と聞くと、「そんなこと、夫がするはずない」と少し笑った声で言い、「こちらも専門家を立てて対応させていただきます」と電話を切った。
 腹が立って仕方がない。相手の言っていることに、なにか驚くような事実があったわけではない。ただ、思った通りにいかないことに腹が立って仕方がない。私は鼻が低い。しかも童顔だ。この仕事を始めて三十年近く。五十代の半ばを過ぎているのに、いまだに子どものように見えることがある。若い頃は、それで男たちに可愛がられたりもしたが、仕事柄、眉間に皺が入り、いまでは童顔に人生を感じさせる老化が色濃く反映して、滑稽なだけの女になりさがってしまっている。それなのに、細身のパンツが好きで、つい安物のスキニーパンツばかり履いてしまう。半年くらい前、合同庁舎の廊下を歩いていると、待ち合わせをしていた依頼者風の男たちがベンチに座り、こちらを見ながら「色気婆じゃねえか」と呟いたのを聞き逃さなかった。抗議してやろうかと思ったが邪魔くさくて、聞こえないふりをした。
 嫌な予感がする。軽度のハラスメント相談で、本人ではなく妻から電話が来たことなどいままでにない。さらに、相談者の女性は、話す度に内容が微妙に違い、そこを詳しく聞こうとするとすぐに泣き出す。嫌な予感がする。嫌な予感しかしない。頑張れ、私。内容証明だけで片が付くような、こんな簡単な案件で失敗するわけにはいかないのよ。頑張れ、私。がたがた言うような男なら、どんどん後出しジャンケンで、話を大きくしてやればいいのよ。ああ、それにしても、あの妻の声のふてぶてしさはなんだろう。もしかしたら、本当になにもなかったんじゃないのか。あのすぐに泣く女は、私が言う通りにうなずいているだけなんじゃないのか。頑張れ、私。頑張れ、私。私以外の誰も頑張るな。言うことを聞け。黙って内容証明を受け取って、黙って折れれば良い。頑張れ、私。(了)
 もう、何年この仕事をしているのだろう。頭のいい仕事だと思われているので、いろいろ聞かれることはあっても、こちらから質問することはあまりない。覚えることばかりうまくて、物事をつなげて筋道をつけることは得意ではない。それなのに、行政書士という仕事に辿り着き、書類と相談ごとに追われる毎日になってしまった。
 最初は少し大きめの行政書士事務所にいて、下働きのような仕事ばかりしていた。まだまだ男と女の働き方は明確に違っていて、下手に資格を持っていると、自律した女性だと持ち上げられて、うまく使われる時代だった。男女雇用機会均等法が施行されたのは、私が大学に入り、法律の勉強をし始めた頃。自分が世の中に出る頃には、仕事上の男女差別などすっかり解消されていると思っていたのが大きな間違いだった。
 最初の行政書士事務所は、地域でも古株の名物所長がいるところで、効率ばかり追い求め、扱いやすく筋道の決まった相談事にだけ特化していた。手間のかからない許認可申請や、決まった書式の相続書類を大量処理し、手数料のように依頼料を受け取る。こうしておけば、処理期間も読めるし、手に入る報酬もしっかりと読むことができる。
 そんな事務所にいたおかげで、突発的でややこしい案件は受けずに済んだが、学生時代に思い描いていた、世の中の役に立つ仕事をしているという感覚は早々に消え失せた。
 独立して自分の事務所を持ったのも、損益分岐点を把握して、ライフワークバランスをしっかりと考えられるようになったからだ。泥沼になりそうな相続トラブルからも、金銭に絡んだ揉め事からもうまく逃げおおせて、今は多いといえば、内容証明の作成や、軽度のハラスメント相談だ。ハラスメントに関しては、命に関わるようなややこしいものは避ける。できれば、「肩を触られた」「抱きつかれそうになった」という程度の軽いものを受ける。相談者のほうだって、多少自分にも落ち度があると思っている。それを「落ち度なんてない」と必死で言い聞かせ、「いいわね、あなたは被害者なの。内容証明に証拠なんていらない。あなたが嫌だった、と言えばそれが根拠になるのよ」と説得する。ひとまず状況をすべて話させて、相手に内容証明を送る。男はみんな弱い。妻子に知られたくない。会社に知られたくない。その一心で、書類が届けばすぐにでも謝ってくる。こうなれば後は、裁判にする必要もなく、やり取りの中で適当な落としどころを見つければいい。行政書士費用が手付金で二十万円、後は依頼者の女性に十万円でも二十万円でも支払われれば満足してくれる。
 今回もそんな軽い気持ちで内容証明を送り、いざとなったら追加の書類作成でもして、すぐにでも相手から連絡が来るだろうと踏んでいた。それなのになんだ、こいつは。書類を見ていなかったと電話連絡を入れてくるのはいいのだけれど、なぜ本人ではなく妻が電話してくるのだ。妻に知られたくない状況だからこそ折り合いがつきやすいのに。そして妻に知られた場合、相手は混乱しているから、解決金も引き上げやすくなる。
 それなのに、電話をしてきた妻と名乗る女は冷静で、しかも「何があっても平気ですから」と言い放った。平気ってどういうことですか、と聞くと、「そんなこと、夫がするはずない」と少し笑った声で言い、「こちらも専門家を立てて対応させていただきます」と電話を切った。
 腹が立って仕方がない。相手の言っていることに、なにか驚くような事実があったわけではない。ただ、思った通りにいかないことに腹が立って仕方がない。私は鼻が低い。しかも童顔だ。この仕事を始めて三十年近く。五十代の半ばを過ぎているのに、いまだに子どものように見えることがある。若い頃は、それで男たちに可愛がられたりもしたが、仕事柄、眉間に皺が入り、いまでは童顔に人生を感じさせる老化が色濃く反映して、滑稽なだけの女になりさがってしまっている。それなのに、細身のパンツが好きで、つい安物のスキニーパンツばかり履いてしまう。半年くらい前、合同庁舎の廊下を歩いていると、待ち合わせをしていた依頼者風の男たちがベンチに座り、こちらを見ながら「色気婆じゃねえか」と呟いたのを聞き逃さなかった。抗議してやろうかと思ったが邪魔くさくて、聞こえないふりをした。
 嫌な予感がする。軽度のハラスメント相談で、本人ではなく妻から電話が来たことなどいままでにない。さらに、相談者の女性は、話す度に内容が微妙に違い、そこを詳しく聞こうとするとすぐに泣き出す。嫌な予感がする。嫌な予感しかしない。頑張れ、私。内容証明だけで片が付くような、こんな簡単な案件で失敗するわけにはいかないのよ。頑張れ、私。がたがた言うような男なら、どんどん後出しジャンケンで、話を大きくしてやればいいのよ。ああ、それにしても、あの妻の声のふてぶてしさはなんだろう。もしかしたら、本当になにもなかったんじゃないのか。あのすぐに泣く女は、私が言う通りにうなずいているだけなんじゃないのか。頑張れ、私。頑張れ、私。私以外の誰も頑張るな。言うことを聞け。黙って内容証明を受け取って、黙って折れれば良い。頑張れ、私。(了)