うたと家族と、るう(1)

植松眞人

  一・弦の切れたギターを弾いて

 いつものように小さなライブ会場を出る。終電に間に合わせようと小走りのスーツ姿の会社員や、帰るのを諦めて次の一軒を探している中年のカップルや、すでに酔い潰れてうずくまっている大学生が、会場の扉を囲むようにうつろな目をしている。彼らの間に、こちらをじっと見ている四、五人の若い女たちがいて、優作を見つけると半歩近寄ってくる。二人はいつもライブに来てくれる顔馴染みで、あとの三人は見たことがあるようなないような曖昧な顔だった。
 背負ったギターが扉に当たらないように用心しながら表に出ると、小走りの若い会社員がギターに軽くぶつかってきた。反射的に会社員の肩を掴んでしまったが、相手の「すみません」という声に、いえ、と小さく返して肩を掴んだことが何かの間違いであるかのように振る舞う。ギターケースのベルトを滑らせて胸の前で抱えるように体勢を立て直す。
「次のライブは夏までやらないの?」
 顔馴染みの女が、今晩これから一緒に飲みに行けるかどうかを確かめようと話しかけてくる。
「うん。そのつもり。いつもありがとう」
 優しい声で返事をしながら柔らかく拒絶する。自分のどこからこんな優しい声が出てくるんだろう、と優作は思う。小さなステージで歌っているときにも、時々思うのだが、こんな優しい声はオレの声じゃない。オレは優しい猫なで声を出して歌いながら、いつもギターの弦を切ってしまう。たまにキーボードでサポートしにきてくれる美代は、なんで切るの、と不思議そうに言う。
「ねえ、なんでギターの弦をいつも切っちゃうの」
 そう言われても切ろうと思って切っているわけじゃない。
「弾き方が悪いんじゃないかなあ」
 自分でも思ってもみなかったことを口にしてしまい驚いていると、美代が身体を折るように笑い出した。
「高校生の頃からギター弾いてるんでしょ。十年以上弾いてて弾き方が悪いってなに?」
 そう言いながら笑う美代を見て、優作は妙に納得してしまい、バンドなんて辞めてしまおうと思ったのだった。十年以上ギターを弾いてきて、まだギターの弾き方が悪いならそれは辞める理由になる。ギターを弾き始めた頃は、弦を切ってしまう自分を少し格好いいと思っていた。そして、そんなことを考えている自分を恥ずかしく思いながら歌っているから、知らず知らず猫なで声になるのだと本気で考えることさえあった。
 美代に改めて笑われると、ギターの弾き方だけじゃなく、これまでにやってきたことが全部間違っているような気がしてくるのだった。
 勇作は美代の細く白い指が好きだった。
「なあ、二人でバンド、辞めようよ」
 そう言うと、美代はしばらく考え込んだ。左手で右手を包むようにしながら首をかしげる美代の白くて長い指を優作はじっと見ている。まるで美代ではなく彼女の指が、優作に聞かれたことを考えているみたいだ。白い指が艶かしく動いている。
 美代が考え込んでいる間、優作は二人でバンドを辞めようという表現が間違っていたことを気にしていた。美代はあくまでバンドのサポートで、正式なメンバーではなかったからだ。正式メンバーは男ばかり三人。優作はギターとボーカル。あとはドラムとベースだけのシンプルなスリーピースバンドだった。優作が父親のCDラックから見つけたU2のアルバム『ヨシュア・ツリー』に聞き入ってしまい、エッジのようにギターを弾きたいと思ったのがギターを始めたきっかけだった。
 優作の父は、優作が高校に上がるのとほぼ同時に家を出てしまい、交通量の多い国道を隔てた隣の町で別の女と暮らしていた。そんな父が置いていったギターを優作が手に取った日から母親は優作とあまり口をきかなくなった。その当時、もう四十を過ぎていた母だが、優作と二人で歩いているとよく「お姉さんですか」と声をかけられるほど若く見られた。母は大げさに否定し、その日は一日機嫌が良かった。
 しかし、優作が父親のギターを手にした日から、母は優作と出歩かなくなり、優作も母と過ごす時間よりも父が使っていた部屋で過ごす時間のほうが長くなった。父の部屋で優作は、書棚に並んだ本を手にしたり、レコードプレイヤーにセットしてあった『ヨシュア・ツリー』を繰り返し聞いていた。
 父のギターを手に取る時間が増えるほど、顔もほとんど忘れかけていた父が優作の暮らしの中に入り込んだ。そして、父が入り込んできた分だけ母が優作との暮らしから身を引いているように感じられた。それが母にとって辛いことなのか、ごく自然なことなのかは優作にはわからなかった。
 優作はギターにのめり込み、来る日も来る日もギターのカッティングの練習をするようになった。左手でコードを抑え、できる限り鋭い音を出そうと右手を叩きつけるように演奏した。弦が指先に食い込み、血が滲むようになってもギターを弾かない日はなかった。上達は早かったと思う。しかし、優作にとっては一曲を覚えることよりも、自分のギターがエッジのように聞こえるかどうかが優先された。自分の耳が信じられなくなって、誰かの言葉が欲しくなった優作は、部屋で録音したデータを学校に持っていき音楽の担当教師に聞かせた。国立の音大でバイオリンを習っていたという女の教師は真剣に音を聴いた後で顔を上げた。
「とても格好いいわね。だけど、音楽ってやっぱりメロディラインと全体のアンサンブルだと思うの。だから、高橋君も最初はしっかりと音を響かせながらメロディを弾くところから始めたらどうかしら」
 そう話す教師の顔が困った顔をしていて、優作はもういたたまれなくなっていた。教師は『高校生のための初めてのギター』という大判で薄い本を音楽室の隅の楽譜がたくさん並べられた書棚から取り出して優しく微笑みながら優作に差し出した。その教師の指先も美代と同じくらいに白かった。
「カッティングが格好いいんだけどさ、優作のギターは。でも、カッティングのやり方がまずくて弦が切れるのかもね」
 ある日、美代の部屋でセックスをしたあと、そう言われて、優作はそうかもしれないと素直に思った。そして、自分はエッジに似たような音をギターに要求しながら、絶対にお前じゃ無理なんだよ、とギターから言われているような気がした。あれから半年経って、やっとメンバーにもバンドを辞めようと伝えられた。一緒にバンドを辞めようと頼んだ美代からは、ずっと答えを聞かないままだったが、それはもうどちらでもよかった。
「次のライブは夏までやらないの?」
 ライブ終わりの優作に声をかけてきた顔馴染みの女の子には、やらない、とだけ答えてその場を離れた。オレが音楽をやることはもうない。ライブ会場を後にして、いかがわしい風俗店が軒を連ねる商店街を歩きながら優作は思っていた。身体の前で抱えているギターケースの中で、切れた弦がブラブラと揺れていることを想像して、優作は笑った。(つづく)