古典には、なんともいえない旨味がある。噛めば噛むほど……と、そんな乾物みたいなものではなく、季節とともに思い出すそれ、たとえば蕪や甘茶の甘味に似ているような気がする。中学生や高校生の頃、古典文法の授業は好きではなかった。でも、どういうわけだろう、先日道を歩いていて、ふと、「なくなく首をぞかいてんげる」という『平家物語』のなかの「敦盛の最後」の一文の音を思い出した。確かこの一文を習ったのは中学生の頃だ。泣く泣く首を掻き切ってしまった、という戦時の陰惨な出来事ではあるけれども、その惨たらしさよりも、むしろ「かいてんげる」という音が昔も今も私には衝撃的で、どうしても、切り落とした首が「回転」してゆく様子を思い浮かべてしまう。いや、そもそもどうしてそんな音を思い出したのか。よくわからない。道路に降り積もった雪を見ながら、そんな陰惨なことを考えていたとも思えないのだけれども……。やってきてしまった音は仕方がない。せっかくやってきてくれたのだから、少しは付き合ってみようと思い、岩波文庫版の『平家物語』をめくり、また薩摩琵琶奏者の西原鶴真が演奏する「壇の浦」を繰り返し聴くことにした。
そんなふうに向こうからやってきてしまう古典が時々ある。たとえばある朝ふと、『建礼門院右京大夫集』の一節を思い出し、その芯の強さになぜか胸が痛くなることがあるのだが、だからといってそれを熟読していたというわけではない。通りすがりのひとのその強い眼が、微かな縁だと思っていたのに、時々思い出され、忘れられないというのと、似ているような気がする。
ただ、古典の旨みはそれだけでなく、本当に必要になった時に、こちらに言葉を与えてくれる旨みでもある。つまり、こちらから求めてゆく味わいだ。ああ、今日はちょっと美味しいものを食べよう、良いお茶を飲もう、丁寧に作られたお菓子を食べよう、という、そんな豊かな欲求であればまだいいのだけれども、本当に必要になった時というのはもう少し切羽詰まっていたり、精神的に疲れていることの方が多いだろう。じっさい、そんな気持ちで先日手に取ったのは、やはり岩波文庫に入っているマックス・ウェーバーの『職業としての学問』だった。大学1年の頃、大人数教室で受けた社会学の入門授業で「薄い本だから読め」と言われて読んだ時には、まったくその内容がわからなかったが、かろうじて大学から給与をもらって生活するようになってみると、そこで書かれていることの生々しさがよくわかる。自分の就職のことについて大学教員は話したがらないものだ、という指摘には心情的によくわかるところがあるし、学問を職業にしたいという若者に、「あんた——とは翻訳されていないけれども、ここは私の脳内で行われた自己流の再翻訳——、自分よりバカだと思っているやつらにどんどん抜かされることがあると思うけど、耐えられる?」と質問したというウェーバー先生が、そのすぐ後で、「プロだから大丈夫です、と答える若者が大半だけど、そういう人たちが精神的なショックを受けるのを俺は嫌というほど見てきた」と——これもやはり私の中の脳内変換なのだが——話してくれる様子は、なんだか信頼できる先輩教員に「あの、最近モヤモヤすることがあって……」と相談を持ちかけた時の対応とよく似ている。
よく、「古典を読みなさい」と熱く語る読書案内が書店に並んでいるのを目にすることがあるけれども、読みなさい、なんて言われれば、やはり反発したくなるものだ。そもそも、『職業としての学問』が私の場合そうだったように、ある本が必要にならないと耳を傾けられないことだってずいぶんある。ただ、そういった読書案内の効用を私は否定しない。生きている人間ならば、後になってから「ああ、あのひとの話をもっときいておけばよかった」となるけれども、本はそうではないから、「こんなこと言っているひともいるよ」という案内ならば、後で思い出すためにどんどん案内してほしい。まあ、案内されるがままになる必要もないし、いくら読んでもまったく響かないものもあれば、ほんの少しすれ違っただけのものが、ある朝うっすらとした悲しみをもたらすこともあるのだから、「効用」といってもいつ効果が出るのかよくわからない「健康茶」程度のものだとは思うけれども。