循環だより 春を感じて

小泉英政

冬のゴボウ畑は、ちょっと見ただけでは、そこにゴボウがあるなんて分からない。夏から秋にかけて地面をおおいつくしていたゴボウの大きな葉は、冬の間はすっかり枯れ、ちぢまってしまっている。二月ごろ、ゴボウを掘り抜くと、春を待つ新しい葉が土に埋もれたなかで準備されていて、丁度、フキノトウのような恰好でゴボウの頭についている。出荷の時にその部分を切り落とし、少しまわりの汚れた葉を落として小さな指に渡す。三歳半と一歳半の二人の孫は、純白の綿毛をつけたフキノトウのようなゴボウの葉を一枚一枚順番にむいていく。外で遊ぶには少し寒すぎる、でも出荷場のなかでの遊びも限られていて、多少ぐずりだした時に、それは美しい遊びになった。

三月になってもザクッザクッと霜柱を踏むような寒い日もある。そんななかでゴボウはどこで春を感じとるのだろうか。地表の温度、日の出、日の入の時間、その他もろもろの何かむずむずとしてくるものを全身で感じとって地上に新しい葉を出現させる。もう春だと。

アサツキもぼくにとっては春を感じさせるものだ。アサツキの植えつけはラッキョウと同じく、お盆すぎだ。秋にかけて葉を伸ばし、ラッキョウは冬の間も葉が枯れないのに、アサツキは地上部が枯れてしまう。薄い黄緑色の新芽が地上部に表れると、ぼくにとっての春が始まることになる。アサツキはぬたが美味しい。しかも地上部に出たが出ないころの初々しいのが美味だと思う。しかしそれでは量が出ないし、出荷するにはもったいなさすぎる。まだかな、まだかなと、アサツキの側を通るたびに目をやる。アサツキの旬は短い。二週間あるかないか。旬はシュンとも読みジュンとも読む。旬(ジュン)は一ヶ月を三分したもので、十日一めぐりのものだから旬(シュン)の長さも二週間あるかないかでいいのだろう。

冬の間、草とりはあまりないように思われるかもしれない。しかしハコベは冬の間にとっておかないとと、美代さんはせっせと寒風のなか畑に出る。男たちが落ち葉掃きをしている間、せっせせっせと鎌を動かしてハコベをとる。ハコベは冬の間は根が一本だけだ。「そこをチョンとやるだけだから」。だが、春が近づいてくると、一週間に一度ぐらい雨が降るようになり、ハコベも春を感じてムクムクと大きくなる。ハコベの茎の節々から新しく根を伸ばし、体全体で地面をつかみ出す。そうなったら「チョン」では済まなくなる。ホトケノザもスズメノテッポウも冬の間にとっておきたい草だ。

三月中旬、葉物たちが次から次へと薹立ってくる。少し前まで葉物のやりくりに四苦八苦していたのに、伸び出す時は一斉だ。あっちでもこっちでも春が始まって、ぼくもむずむずむくむく春の畑に立つ。