しもた屋之噺(40)

杉山洋一

時間がものすごい勢いで目の前を走り抜けてゆくように感じる瞬間があります。新幹線のホームに立っているようなもので、遠くから新幹線が近づいてくるのを眺めていながら、自分の目の前を通り過ぎるときは、ものすごい風圧に倒れそうになりながら踏ん張っていて、ふと見ると、もう大分遠くへ通り過ぎていたりするのです。

家人の身体の変調に気づいたのが昨年の7月末。8月東京に戻り、早速医者にかかり妊娠を確認し、初めてエコグラフィーで子供が動いているのを見たときは、理由もなくへなへなと身体の力が抜けてしまいました。あれから時間が過ぎ、長男がミラノで生まれたのが一週間前。階下で、猫の甘え声とも、いるかの鳴き声ともつかぬ声を立て、顔を真赤に染めあげて、小さな腕を振り回しています。

この世に暮らし始めて一週間、というのは一体どんなものでしょう。想像するだけで気が遠くなるような、とてつもない旅をするようなものではないでしょうか。引っ越して一週間というのとは訳が違うはずで、一週間前までまだ他の人間すら見たことがなかった人、というのは、なかなか凄いことだと思うのです。

案外、ずっと子宮でじっとしていたわけでもなくて、次元の波を乗り越えて、どこか見ず知らずの場所に時々ふっとワープしたりして、頃合を見計らっては戻ってきていたのかも知れないし、真面目くさって、ひたすらじっと耳を澄ましていたのかも知れません。何れにせよ、いくらゴボゴボいう羊水の雑音の向こうで、外の世界をうっすらと思い描いていたにしろ、想像していた代物とは似ていなかったに違いありません。

この寝顔を眺めていると、赤ん坊が長い間天使のモデルになったのは、可愛さだけではないと感じることがあります。今まで、数え切れない世界中人びとが、誰も彼らがどこから来るのか知りたくて、思わず空を仰いだに違いありません。教会の巨大なクーポラ一面を空に見立て、人々が天使を舞い降りるように描き始めたのは、もう大分昔の話です。時間は静かに過ぎてゆくような気がしているけれど、実はその時間の中をものすごいエネルギーで泳ぎまわって、赤ん坊が生まれてくるのかもしれません。こちらが時間のとてつもない風圧になぎ倒されそうになっているとき、世の中の赤ん坊たちは、案外その飛沫にのって波乗りでもしているのかも知れないのです。

そうでなければ、世界に飛び出してまだ一週間も経たないのに、あれだけしっかり生きる度胸はすわりっこないさ、自分がよほど気が弱いのか、そんな薄い畏怖すら覚えるのです。
言葉もしゃべれない、ご飯だって満足に食べられない、動く事すらままならない、そんな状況で自分が全く違う環境に放り出されたら、一体どうしてあれだけ堂々と生きてゆけるものかと、思わず自問自答してしまいます。それどころか、与えられた同じ一週間という時間のなかで、この子供と自分と、一体どちらが人を喜ばせて、笑顔をもたらす事ができたかと思えば、あそこで有りっ丈の声を張り上げ泣いている子供が、とんでもない生命体に見えてくるから不思議です。

人生がルーティンにはまっていないのも、羨ましい限りです。今日が終われば明日がある、そんな人生は想像も出来ないに違いありません。何しろ、この世界の空気を吸って、まだ一週間足らずなのですから。明日生きているはずだなんて、露ほども思っていないでしょうし、だからこそ、一挙一動すべてにエネルギーを注ぎ込むのでしょう。

彼が本当に幸せな世界に降り立ったのか、我々が断言できる自信は残念ながらありませんが、一週間前に知り合ったばかりの赤ん坊の方は、よほど人を幸せにする心得に長けているように思います。歓迎の言葉をかけるべきなのは、どちらだろう。
そこかしこに咲き乱れる木蓮の匂いが、思わず頬をくすぐります。

(3月31日ミラノにて)