3月の練習

高橋悠治

    これでは以前とおなじだ
      また はたらくようになってしまった
  と思いつつ
 3月は3つのコンサートの練習をしてすごした
      18世紀から20世紀にかけて興り栄え崩壊した西洋音楽が
         楽譜に書かれ
        楽譜はスケッチではなく設計図になって
 しかも楽譜に書かれた音符を絶対とする信仰が
    1930年代に生まれたために
        逸脱を許さない安全の規律にしばられ
機能主義と速度を競う演奏の態度が生まれた
 演奏機械の誕生
    それは国家社会主義とケインズやニューディールの時代
  崩壊した経済を国家の介入でのりきる戦略のもとでの
        文化統制の表現
 純粋 均質 本質 こんなことばがいまも生きているのか
            そこで練習はもう
変化するおなじ アミリ・バラカ
  あるいは 毎回の更新ではない
         おなじ回路をくりかえし
   意識から無意識になっていくプロセス
    ゆっくりくりかえし だんだんに加速する
     あるいは一気に速度をあげて確認する
  こんな練習法が通用しているのはなぜか
三味線の稽古では 練習曲もなく
     ならうとは 文字通り師に倣うこと
        はじめから速いものは速く おそいものはおそく
 いっしょに3回弾き 今日はここまで
質問してはいけない
  なぜなら と師は言われないが
            わからない者がする質問は
           その水準での誤解にもとづいている
 それに応えれば その水準から出られなくなる
     そしてわかれば 質問してもむだだとわかる
 質問はなくなっても 問いはのこる
        あるいは答のない問いだけが生きつづける
            ところで
ネイガウスやリヒテルの現代ロシアピアノ奏法では
 やはり速いものをおそく練習するのはむだだと思われていたらしい
         そのかわり
  つまずいたところで中断して
         そこまでとそれからを練習し
            くりかえすことは4回まで
     すると うごきはなめらかになっている
 エイゼンシュテインのモンタージュやメイエルホリドのビオメハニカの
     ロシア・アヴァンギャルド思想はこうして
           ピアノ演奏技術を装って
        スターリン時代を生きのびたのか
  また
   グレン・グールドの練習法のひとつ
             一方の手の指で他方の手の指を踏みつけながら
 1曲を弾き通す
           足枷をかけられた囚人のように
        それができたら 元通りにやってみると
    ふしぎに もうできていた
           こうして
 バッハのゴールドベルク変奏曲全体を練習するとは
   北の人の なんという苦行か
グレン・グールドが小屋のなかで練習しているビデオを見た
        歌いながら 時々中断しては
 考える隙もなく すぐやりなおし
   そうだ
     考えないことはたいせつだ
その場でなんとか切り抜ける
  それが人間の歴史
             そこには原理ではなく方便だけがある
    対機説法と言われるもの
     分析ではなく分岐
        思考ではなく瞑想
    精神ではなく身体からはじめれば
        心身二元論に陥ることはない
            身体の中心をいつも意識すると
末端は自律する
            どこで読んだか忘れたが
抱いている赤ん坊を取り落としかけたとき
            一瞬力がはいるところが 身体の中心
   あるいは丹田
        あごがゆるみ 肩が落ち
            腕が身体から離れると
  指が身体の中心から操られる
            こうして人形のように空洞になった身体が
     音をきく
   と言うより
  音がきこえてくる
        合図することなく 相手を見ることなく
    それぞれの時間でうごきながら
          いっしょに合奏する方
  異質のままでありながら対話することができる
      共同体と個人の
   あるバランスの取り方