糸ほどの

高橋悠治

いつのまにかいなくなった人たち スラマット・アブドゥル・シュークルは80歳になっても元気で作曲していた ある日転んで ほどなく亡くなった 今年2015年3月26日スラバヤだった もう一人の友人ジャック・ボディの70歳を祝う本のために歌曲を送った すると 治療できないガンだとわかったという知らせがあり その後本人から昔ニュージーランドで会った年をたずねるメールが届いた その時は 思い残すこともなく安らかにすごしているということだった 今年5月10日にウェリントンのホスピスで亡くなった 杉本秀太郎は しばらく会っていないと思いだしたとき 白血病で 治療を一切せずに亡くなっていた 今年5月27日

たよりがなくなり 消息が絶え 人はいつかいなくなっている さまざまなしごと 作曲家だったり エッセイストで 作品を知っていたとしても 思い出すのは そういうことではない 会って交わしたことばでもない その人もそこにいた空間の いつどこともわからない空気に通うそよ風のような感触 行き交い すぎてゆく 人びとの影

たのまれて 4つの楽器のための作品を書いている 全体の構成を考え タイトルも決めて書き出したが 2ページも行かないうちに停まってしまった 数日考えて いまどき 予想した全体を作曲技術で実現しようと思ったことが まちがいだったという感じがした 全体もなく 部分もなく 構成も構造もなく 注文された楽器の組合せだけが残る 

ある朝 眼がひらきかけたとき 薄暗い部屋に浮かんだ音のかたちを書き取って そこからやりなおす 一つの短いフレーズから しばらくたって 次のフレーズが浮かんでくる 来る音を待ちながら 一節ずつ書いて 見開き2ページでいったん停まる こんなことでいいのだろうか と思いながら

楽譜や音符は眼のためのもの それがいけないということもないが 抽象的な図式や操作よりは 楽器という硬い表面をさする手ざわりや うごきかたが 似たような跡をなぞりながら すこしずつ範囲をひろげて ちがうところをためしたり 手を遊ばせているうちにできてくるなにかのほうが 発見のおもしろさがあるような気がする 

手のうごきが近くに感じられ 耳に聞こえる響きは まちがっていないことの確認になる 書きとめられた音符は眼のためにあり 眼は離れた位置から全体像を見通せる と思うかもしれない が 音のちょっとした揺れや わずかなアクセントのちがいで 全体像は変わる それは構成し積み上げる論理や 全体を分割し 細部を埋めていく論理からでてくる しっかりした全体のイメージというよりは どことなくあいまいで 端を押せば裏返ってしまうような 頼りない全体の ニセのイメージかもしれない というか 接合された響きやリズムがバラバラにならないようにつなぎとめている うっすらとした輪郭にすぎないのではないか

と つい書いてしまうが この曲はまだできていないのだから 先回りしても むだなことだ それでもプロセスがうごきつづけていれば それがどこかにたどり着くよりは 曲の終わりを越えて 動き続けるほうがいいに決まっている