産みたて卵につみはない

くぼたのぞみ

「鶏のえさ箱がどうしていつも落ちているのか、これでわかった!」母はそういって、真っ白な表面にまだざらりとした感触が残る温かい卵を受け取った。

 まるく、すり鉢状になった藁の上には、いつも一個か二個の卵がのっていた。それを採ってくるのが面白くて、たいくつ紛れに、ふと思いつくといつも、鶏小屋の窓から入り込んだ。本当の入口は小屋の横にある、蝶番のついた大きな板戸だ。
 その板戸を開けて鶏小屋まで行くには、山羊のいる場所を通らなければならない。屋外の草っ原とちがって、チェーンでつながれていない大きな山羊が、壁の近くの寝わらのなかに細い目をしてうずくまっている。その隣を歩いていくことになる。おまけに、山羊が逃げ出さないよう、板戸は開けたらすぐに閉めて、しっかりかんぬきをかけるのだ。もたもたしていると、起きあがってきた山羊に、どけろどけろ、といわんばかりに鼻面で背中を押される。山羊が外へ出てしまうかもしれない。そうなると手に負えない。しかられる、当然。
 
 だから山羊が小屋にいるときは、その「本当の入口」は避けて、もっぱら鶏小屋の小さな窓から入った。窓の下部は子供の胸下ほどある。窓を押し開け、ゴムの短靴をはいた片足を思いっきりあげて窓枠にかける。横の窓枠につかまって、よじのぼる。鶏小屋の床は外とほぼおなじ高さだが、入るときは手ぶらだから飛び降りればいい。
 窓を閉めて、ざわつく鶏たちのあいだを縫って奥へ進み、棚に寝わらが敷かれたすり鉢状の「巣」へ近づく。鶏が座っていないときは簡単だ。藁の上にほっこり浮かんだ卵をそのままいただく。鶏が座っているときでも両手で抱きあげると、その下に真っ白な温かい卵が見つかる。
 卵が二個あるときは一個をポケットに入れ、残りの一個を片手にもつ。それからが問題だ。手が半分ふさがった状態で外へ出なければならない。そこで窓の下側に引っ掛けてある、横長の餌箱に片足をのせて、あいている片手で窓枠につかまり、えいっとのぼる。あとは外の地面に飛び降りればいい。このとき必ずといっていいほど、ゴム短で踏んづけた餌箱が、背後でカタリと落ちる。
 というわけで卵集めのあとはいつも餌箱が落ちてしまうのだが、もちろん、そんなことまで母親に報告はしない。あるとき現場をおさえられた。それでばれた。

 痛い思いもした。いつものように窓から侵入して「巣」まで近づくと、鶏が藁の上にしっかり陣取っている。持ちあげると、これから卵を産むところだった。鶏をそのまま降ろして、下側から手で探るようにして卵のはしをつかみ、鶏のお尻からスポッと抜いた。卵は正真正銘の産みたてだ。次の瞬間、手の甲にツンと痛みが走った。鶏がくちばしで突いたのだ。鶏は赤いとさかを立て、目を剥いて、ご機嫌ななめ。無理もない。

 でもそれで卵集めのシゴトが終わりになることはなかった。卵採りは五歳の子供が存在を主張できる数少ないチャンスだった。一歳違いの兄はぴかぴかのランドセルを背負ってガッコウへ行ってしまい、話す相手がいない。遊ぶ相手もいない。幼稚園も保育園もない村の、隣家まで数十メートルもある家に暮らす子供にとって、日々は大きな時間の塊でふさがるばかり。テレビもない。電話もない。くる日もくる日も、ひとり遊びに飽きて、まだ終らない時間がつづく。

 田んぼのなかで泥をはねかしながらプラウを牽く脚の太い馬、植えられた稲株のまわりのぬるい水のなかを尻尾をふって泳ぎまわる黒いオタマジャクシ、ゴム短の靴裏で何匹も踏みつぶしたちいさなアオガエル(カエルさん、ごめんなさい)、もっこり脂っぽい毛のマントを着た羊、ちゃんと鼠を捕りぶっかけ飯を食べる三毛猫、おやつ代わりの四合びんの乳を出してくれる山羊、水路のへりからざるですくったドジョウを金網ごしに投げあたえると羽根を散らして争奪戦をくりひろげる鶏、煙突と屋根のすきまに巣をつくる雀、黄金色の稲の穂先に止まる矢車トンボ、勢いつけて草むらに踏み込むと四方八方に飛び交うバッタ、ホバリングしてアカツメクサの蜜を吸う蜂、こんもり盛りあがった小さなつぶつぶの土の小山を棒で掘り返すとおもしろいほど右往左往する蟻、釣り餌にするため排水溝わきの湿った土を掘り返すと出るわ出るわ大小のイトミミズ。

 生命をもって動くものたちのあいだに、遊び相手のいない人間の子供がひとり、陽も高く、観察時間だけはたっぷりとあった。