オトメンと指を差されて(64)

大久保ゆう

さて12月がやってまいりました。みなさんもうすぐクリスマスですよっ!(わくわく)無類のクリスマス好きであるわたくしは、もうそれだけでテンションが上がってしまうばかりか、いそいそうきうきとクリスマス関係のものを観たりながめたり読んだりすることが生活の一部となります。

そういえばみなさん、赤鼻のトナカイのことはご存じですよね。有名な童謡。それではそのトナカイさんに原作の絵本があることは知ってますか? しかもなんと3冊も!

1939年にロバート・L・メイというコピーライターが著した『ルドルフ:赤鼻のトナカイ』という3色刷りの絵本がそもそもの始まりでした。そこからあのお歌に翻案されて世界中で知られるようになったのですが、絵本の方はもちろんお歌で知るあのストーリー通りでありながら、ちょっと違う(もっと詳しい!)ところもあります。

デンヴァー・ギレンという人の素朴な絵を添えながら、本文は詩の形で進んでいくのですが、サンタさんと赤鼻のトナカイはすぐに出会わずその年のクリスマスイヴがひどい天候でさんざんサンタさんが困ったあげくトナカイの村にプレゼントを配りにいったときに寝ているルドルフと偶然出会うとか、あるいは赤鼻には暗い夜道だけではなく真っ暗な部屋を照らしてサンタさんがプレゼントを子どもたちの枕元に置きやすくするという役割もあるのだとか、なるほどと思えることも描かれつつ、そのほかトナカイの勧誘シーンにはこんな記述も。

  (サンタのおじさんはここで、ルドルフをすごく
   気づかって「すばらしいおでこ」と言いました)
  「でかい赤鼻」なんて呼んだら人聞き悪いですし!

えええっ! と思ってしまいますが、このあと本文でもルドルフの赤鼻を参照しようとするときは毎回「ルドルフの……その……おでこが」と言いよどむあたり、配慮が徹底していたり。ただしこれは例の歌が流行ったあとの改訂版では、〈赤鼻〉が有名になったためか、すべて消えてしまうのですけれども。

さらに書かれた2つの続編については、もっと知る人の少ない絵本です。ただし1951年の『ルドルフの二度目のクリスマス』は、詩から散文になり、同じ人の書いたものとは思えないやや精彩を欠いたものになっていまして。

赤鼻のトナカイは、その主人公の持つ特徴から、差別をテーマにした作品とも受け取られているのですが、その観点からすると、二作目はその側面を捉え間違ってしまったのか、詳しいお話は省略しますが、いわゆる〈フリーク・ショー〉を無邪気に肯定してしまう結末になっておりまして、少々問題があります。とはいえ、元々絵本用・出版用に作られたものではないらしいので、各キャラの雰囲気が違うことも含めて、仕方ないことなのかもしれません。

しかし3作目、同じく詩によって書かれた正当な続編たる『ルドルフに光ふたたび』(1954)は、今でも〈赤鼻のトナカイ〉へたびたびなされる批判に対しても真摯に答えており、1作目と比べてもまったく遜色ない作品になっています。

ルドルフはその赤鼻という希有な特徴、言い換えれば〈一芸〉によって注目され、活躍し、周囲にもてはやされたわけなのですが、この作品で語られるのは、その〈一芸〉に対する嫉妬や不安、それにまつわる自己認識や挫折、そして再生です。

1作目の結末では、ルドルフが一転いじめられっこからトナカイたちの人気者となるのですが、3作目ではそれから時間も経ち、周りの目も変わり、次第に〈憧れ〉は〈ねたみ〉へと移っていきます。

  聞こえてくるひそひそ声。「なんであんなやつが」
  「オレたちの方が強くてでかいし」「年上なのに」
  「こっちは腰痛めてるのに、あいつだけ目立って」

そして始まる陰湿ないじめに、やがて消えるルドルフの鼻の光。唯一の〈一芸〉がなくなってしまった彼は、自分の存在価値そのものが失われたと感じて、クリスマスを前にサンタの元から家出してしまいます。夜の闇のなか、かつての自分のことを知らないような、できるだけ遠い場所へ行こうとするのですが、その先で出会ったウサギの群では、子どもたちが行方不明になっていて。このままでは野犬に食べられてしまうと嘆く両親、光る鼻があればすぐ見つけられるはずなのに……

そのあと描かれる、単なる幸運ではなく、自分の力によって自信を取り戻していくルドルフの姿には、とても強く心を打たれます。この3作目と1作目がひとつになった絵本も昔に出ているのですが、合わせて読むと、ただ個性を尊重しようという楽観的なものではなく、都市伝説的に流布しているルドルフのお話とはまた別の趣が、原作絵本にはあったことがわかります。

いずれも未訳。いつか全編を日本語でご紹介できるといいのですが。