109むらさき・みどり――夕暮駅・2

藤井貞和

群咲きの花園を荒らそう、
ぼくらが這入ってゆくみどりに変わる遊園。
天上の信号機気動車の笛、
ゆうべの使令幼年舎歩行者の足音、
そろそろそろそろ飛ぶ火野の鹿の園。
紫苑にゆき向かい帰らぬ兵士は、
きみらの足音聞かすすべのない帽を、
耳朶に傾けていま朽ち果てる。
みどりに変わる遊園の人々、
天上の信号機に乗って歌姫行かす。

(11月尽、12月へ、訃報つづきです。お国はヘイト・スピーチ〈嫌いね!言説〉が現代詩を覆いつくし、短歌も、それから俳句も被災することだろう。逆かな、どこへゆくのかな。きのうは辻井喬さんの追悼文〈普通の詩人の普通の声〉を書いていました。ブランド文化というのは一種の差別社会の創生です。辻井さん(堤清二)は西武百貨店のごちゃこちゃした棚をつくり、パルコを用意して私らのようやく這入れるお店を作り、ブランドに対抗しては無印良品、西友、一時は牛丼の吉野家、イベント空間、ちいさな詩の雑誌、若い詩人のしごとにまで目を配ってくれました。近況としては先週にはダライ・ラマの来る一週間前の京都精華大学でイベントや「うたの文化論」をやってきました。いろんな質問が出て、言いのこしたことをあとから受講生諸君に以下のように回答しました。〈感想シートをありがとう。物語と歌との関係は? 詩が現代に「よい子」向けになっているのでは? 最近の歌をどう思うか? ファンタジー紀のあとには何がくるのだろうか? ぜひ、いろいろ考えて下さい。蛙の文様を始め、土器に貼り付けてある動物や人間は、みな激しく舞踏の姿をしていますね。歌声、リズムや動きが伝わってくるようです。宮藤官九郎さん、大友良英さんが、「あまちゃん」のそこここで、80年代歌のしかけをいろいろ試みています。「もんじゅ君」のサイトと言うのがあり、ゆるキャラのもんじゅ君が大友さんにインタヴューしていて、その細かいしかけをつぎつぎに質問しています。私ですか? 少し古く、60年代、70年代ですね。童(わらべ)うたや子守歌は、永遠にうたの原点だと思います。古代歌謡で童謡と書くと「わざうた」です。90年代初頭の「踊るポンポコリン」を現代の「わざうた」ではないかと論証していた論文がありました。湾岸戦争の前後の世相とかかわる。20年に一度、とみると、現代ではフォーチュン・クッキー何とか(AKB48)あたりかも。「わざうた」が出てきそうな危うい現代ですね。「あきらめそうになった時、読む詩はないか」という質問がありました。中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』、同『括弧』(みすず書房)は元気になると思います。中井さんは精神科医です。「ファンタジー紀のつぎに何が来るか」という質問。どんな理想郷もデストピアも、たとい人類の破滅でも、ファンタジーの得意とするところだから、その限りでファンタジー紀の延長です。現実がほんとうに壊滅し始めたら、という予感のさきはまだ考えられなくてよいと思います。〉)