製本かい摘みましては(88)

四釜裕子

打ち合わせ先が決まると彼女はパソコンで路線検索画面を開く。より早く、より乗り換え回数が少なく、乗り換えの際の歩く時間もより短い路線を選んで、それが示された画面と乗り換え駅及び下車駅の構内図、そして目的地の地図をプリントする。乗車時間ぎりぎりまでデスクワークをしてせんべいなどかじり、足早に駅に向かう。降りる駅の改札に近い車両を選んで乗って、プリントした内容を車中で確かめる。電車を降りたらプリントに示されたとおりに早足で移動する。常にきちんと調べて動いているから、電車が遅れて遅刻する場合は「電車が遅れておりまして」と丁寧に先方に告げる。方向音痴なのに地図が嫌い、早足が嫌いなのに寄り道が好き、電車が遅れておりましてなんてことを電話したくない私は、一緒の打ち合わせでも彼女とはいつも現地集合にしている。

昨日も現地集合だった。早々に出た私は喫茶店で珈琲を飲み、商店街を歩いて抜けたら空き地があった。一面、紫。近づくと、ホトケノザだった。その先の黄色い花は何だろう。垣根にからみついて咲いている。草花は、名前を知るよりもまずうつくしいとかおもしろいとかを感じていたい。これはほんとうだけれど、それを言い訳にして名前をおぼえることをちっともせずにきてしまった。道ばたで見つけた花のうつくしさに声が出てしまうとき、その名前を呼べたらもっと楽しい。実際はわからないことが多いからこの日もまた「おっ、黄色い花!」となでて集合場所に戻った。数分後、彼女が「すいませーん」とやってきた。時間に遅れたわけではない。打ち合わせを済ませ、帰りの電車の中で黄色い花の話をし始めると、彼女がスマホで花の名前を調べ始め(やめて。名前を知りたいわけじゃない)たが、見つからなかった。

帰ってネットで探して花の名前の見当をつけ、小学館の『園芸植物大事典』を開いた。1990年に完結した全6巻を本巻2冊と別巻1冊にしたコンパクト版で、装丁は勝井三雄さんと麻生隆一さん、本文レイアウトは坂野豊さんだ。たったひとつの花の名前を探すために棚から出したことはすぐに忘れて、細かな文字を追うでもなく、色もかたちもどうしてこんなにさまざまに分かれたものかと、分厚いページを前に後ろにめくっては広い広い植物界に入り込む。夏にはどの木陰で休もう。寒くなったらどの国に飛ぼう。どの葉を揺らそう。どの花に目を奪われよう。鳥や昆虫気取りの時間は過ぎて、探しものは見つからない。黄色い花をつけた植物の、特徴をつかんでいなかったからだ。いつか似た季節にあの黄色い花を見かけたら、昨日のことが思い出されるだろう。今度は花びらのつきかたを、注意して見ることだ。名前で呼びかけられるようになるかな。