犬の名を呼ぶ(9)

植松眞人

 誰もいない小学校の校庭は、新年の改まった気分を強く印象付けようとしているかのようだ。誰にも動かされていない空気は、ただ寒いだけではなく、シャーベット状の氷の粒を含んでいるかのようだ。
 遠くからも見えていた凧は校庭の真上に揚がっている。しかし、その糸は遙か南のほうへ降りていて、どこで誰が操っているのかはわからない。
 校庭に行けば、誰かが凧を揚げている。そう思って駆け足でやってきた聡子だが、さほどがっかりした様子でもなく、眩しそうに空の凧を見上げている。ブリオッシュも凧を見上げていたのだが、すぐに飽きてしまったのか聡子の足元に座り込んでしまった。
「誰もいなかったな」
 高原がそう声をかけると、聡子は凧を見上げたままで答える。
「でも、あっちに行けば、会えるんでしょ?」
 そう言って、糸の降りていくほうを指さした。
「そうだな」
 高原は答えて聡子の表情をうかがっている。聡子はじっと凧を見上げている。
「凧を揚げている人に、会ってみたいんじゃないのか?」
 高原の問いかけに、聡子は笑顔だけで応える。
「聡子、探しに行こう」
 高原はふいに言う。
 聡子は戸惑うような表情を浮かべる。
「遠くってもいいさ。探しに行こう」
 高原が言うと、聡子が表情を明るくする。
「本当にいいの?」
 と聡子は声を弾ませ、そのまま言葉を継いだ。
「もしかしたら、いい人じゃないかもしれないよ」
「凧を揚げている人が、か?」
「うん」
 なんだか楽しそうにそんな話をしている聡子が、高原にはとても愛おしい。気配を察したのか、ブリオッシュもすくっと立ち上がる。リードをつけようとブリオッシュのそばに近づいた高原だが、考え直してリードを小さなショルダーバッグにしまい込んだ。そして、聡子の背中とブリオッシュの背中を同時に小さく押した。
 二人は駆け出した。
 広い校庭の真ん中を切り裂くようにブリオッシュが駆け、その後を聡子が追う。少し凍っていた空気が左右に分かれていく。校庭の真ん中に一本の道ができたように感じられる。その道を高原はゆっくりと歩き始める。聡子の背中を眺めながら、そして、時々空で揺れる凧を見ながら。高原はゆっくりと歩き始めた。
 校庭の端まで走って行ったブリオッシュは、まだ追いつかない聡子や高原を心配したのか、一度大きく引き返してきて高原の足元へとやって歩調を合わせる。高原が「いいよ。聡子のところへ行ってやれ」と声をかけるとブリオッシュは、今度は聡子の足元で歩調を合わせて早足で歩くのだった。
 聡子とブリオッシュは校庭を横切り、小さな通用門のところへやってきた。まだ校庭の真ん中あたりにいる高原を聡子は振り返る。高原は聡子に笑いかける。すると聡子は迷いを振り切ったような表情で小さくうなづくと、ブリオッシュと一緒に門をくぐり、校庭の外へ出た。
 高原は不思議な感慨にとらわれた。さっきまでは聡子が迷っているなどということさえ思わなかった。聡子が振り返りこちらを見た瞬間ですら、聡子が凧揚げをする誰かを追ってもいいのかどうか、迷っているなんて思いもしなかった。それなのに、高原が笑いかけた瞬間に、聡子は迷いを振り切った。その表情を見たことで、聡子が迷っていたのだ、ということを高原は知ったのだった。
 ああ、笑いかけてよかった、と高原は思った。さっき、聡子が自分を振り返ってくれたとき、笑いかけてよかった。笑いかけたからこそ、自分は聡子を知ることができた。心からそう思うことができた。そして、ブリオッシュにも笑いかけてやればいいのか、と高原は思った。今度、ブリオッシュと二人だけで散歩に行くときにはそうしてやろう。妻にも菜穂子にもそうしてやろう。笑いかけてやろう。高原はそう思うのだった。
 ブリオッシュも聡子も見えなくなった校庭の真ん中で、高原はそんなことを考えながら、立ち止まった。そして、何気なく振り返るように凧を見上げた。高原が凧の姿を認めたのと、凧が大きくバランスを崩したのはほぼ同時だった。高原は右へ左へと八の字を描いている凧を見つめながら、あの凧をいま操っている人を思った。凧が落ちないように、必死で糸を引き、緩め、手繰っている姿を思った。そして、その人の元へと急いでいる聡子とブリオッシュを思い浮かべた。
 凧は少し持ち直し、揺れ幅を小さくしている。高原が思い描いた凧を揚げる人は、足元をふらつかせながらも踏みとどまっている。高原はその人の顔を確かめるようにじっと見ようとする。
 もしかしたら、自分自身が必死で凧を揚げているのではないか。高原は漠然とそう思った。なぜ、そう思うのだろう。自分もこんなふうに空高く凧を揚げたいと思っているのだろうか。聡子やブリオッシュが見上げてくれるほど、空高く凧を揚げたいと思っているのだろうか。
 風が強く吹いた。校庭の砂煙が舞った。糸が強く張る音が電子音のように響いた気がした。空高く揚がっていた凧が、右に大きく旋回した後、グンッと引かれるように空の奥へと押し込まれ、瞬く間に見えなくなった。高原は小さく声をあげた。
 ブリオッシュの鳴き声が遠くで聞こえた。きっと聡子は見えなくなっていく凧を追って、全速力で走り始めたに違いない。
 高原もその後を追う。大丈夫。もし、凧は見つからなくても、凧を揚げていた人はきっと見つかる。ブリオッシュと聡子がきっと見つける。