犬狼詩集

管啓次郎

  109

流動する海面があまりに眩しくタールの沼のように炎上しはじめた
通行止めの標識のむこうで溶岩が夜の道路を発光させている
野火の黒い煙幕をつっきって平原から脱兎のごとく生還した
恐ろしい情景を想像すると必ず自分の背後でそれが起きている気がする
毎週金曜日ごとに二頭の猟犬に食い殺される女の話を聞いたことがあった
でも彼女に一週間の生存を保証するのはその儀式だ
太陽のことさえ長老はthe bright oblivion と呼んだ
こんなに暑い冬なら砂糖黍でも嚙んで過ごすしかない
夢想と死と詩の区別がつかず困っていた一時期があった
空が快晴と土砂降りによりきれいに分かれている
虹をもたらす光源がひとつスペイン語で沈んでいった
島がひとつの書物であるときかれらの冒険は最近の数ページでしかない
太陽が上る? ちがう、私たちが東向きに倒れているのだった
言葉は音なのだから文字では書けないという思い込みを誰が壊したのかな
何世紀か生きているという老人に思い立って会いにいった
呼吸数を極端におさえ牛蒡のお茶ばかり飲んでいるそうだ

  110

空に水たまりのように別の質感のある別の空があった
きみが必要だと語るものの大部分はいびつな真珠にすぎない
冷たい空気塊の中に褐色の肌の聖母が出現した
小刻みに高度を変える旅客機の中で震えている
チーズに味わいを与えるダニがいるかどうか表面をよく観察した
そのギリシャ人の娘はケベックで育ったのでフランス語がよく話せる
街路樹の枝を落とすことを指示した市長にみんなが憎しみを覚えた
親方は煙草ばかり吸っているのに仕事は着々と進む
その街ではパン屋と詩人と犬がもっとも早起きだった
黄金(くがに)ですか三星(みちぶし)ですか意味を教えてくれませんか
散文が話されることはなく話し言葉はすべて詩のようだった
複雑な海底地形に翻弄されて波が一刻も安定しない
高原なのになぜか光と風の感じが海岸だった
「海水の上に雨の真水が載った状態のことを淡水レンズといいます」
素材をなるべく生の状態に戻すことが何より大切だった
サボテンの棘を抜き葉を炭火で焼いて葉肉を日曜日の食事とする

  111

詐称の対象としてではなくidentityという言葉を使う人がうらやましかった
素粒子論がわからないのでせめて髪を短く切ってみる
雪の最初の百片を数えたなら幸福になれると彼女は信じていた
思考が突然現実化するほど恐ろしいことがあるだろうか
光だけが実在を保証するのでそれだけその分だけ夜が恐かった
ネヴァダ(雪をかぶった土地)の夜の星、光の宇宙的シャンデリア
きみの性的な神話がおれの夢をことごとく血まみれにした
人生が人生をめぐる命題群ならきみの存在も三つのソネットで要約できる
Reveryとdreamを閉めた扉で隔てて安眠を確保した
窓ガラスを破り外気を入れることで夜を一種の健康法としている
あらゆる写真をピンぼけにすることで優れた写真家となった女性写真家がいた
やはり私には水彩しかないと画材店でつぶやく老人に衝撃をうけた
切り抜いた円い紙とピンポン球と月がちょうど重なるように並べてみた
その蝕から一列に並んで空へと出てゆくことを計画する
誕生日なのでパスポートは更新しないか別の国のものに変える決意をした
月にささげる肉としては鹿と猪のどちらがいいのでしょうか

  112

村はずれできみを待つ老人は必ず一時間後の天気のことを話したがった
木の幹が裂けるほどの寒気は経験したことがない
ピンホールカメラで三年をかけて月と星の運行を撮影した
市電の線路で硬貨を潰す遊びを四十年ほどやったことがない
ひとしきり雪が降った後の駐車場でフロントグラスを笑顔に変えていった
柑橘類にオレンジ色と黄色があることに謎をかけられたような気持ちになる
南瓜の肉を「オレンジ色」と呼ぶたびに恥ずかしさにうなだれた
赤葡萄酒の香りを形容するために自然物を並列してそれでいいのか
トロントに行くかモンレアルに行くか、グアテマラ人の大きな迷いだった
パンを食べながらその味わいに青空の名残を探す
使われなくなった線路の枕木の間にずいぶん大きな樹が育っていた
私たちの言葉が絶滅するなら毎日その歌をうたいましょう
そこまで愚かになれるなんて何度転生したのかわからなかった
Buffaloという名を耳にするたびそれを見たくてたまらなくなる
海風が右の耳から入り左の耳へと吹き抜けていった
強い風が鹿の耳のかたちに切り抜かれて見えない渦を巻いている