目的なしの連想的歩行(1)

三橋圭介

目隠して歩く。まっすぐにすら歩けない。五歩くらい歩いただけで、安全だと分かっていても不安になる。暗闇の世界が広がる。しかし知っている道も、知らない暗がりのなかに埋もれて、自分の居場所がなくなる。そしてほんの少しの音にも敏感になって、気配を探る。

いつも町田の小田急線への道で眼を閉じて誘導用ブロックを歩く練習をする。理由は特にない。空いている時だけだが、やっている。不安はあるが、慣れてくると結構歩ける。だんだん曲がり角のブロックの形の違いも、足の感覚で分かるようになった。時々、視覚障害の人を見かけるが、誘導用ブロックを歩いていないことが多いのは、歩くことに慣れているからだろうか。目隠しをして聴いているものは、視覚障害者の聴いているものとは違うのだろう。かれらの「歩くことに慣れ」とは、自分と物や人物などとの距離を測ることだろう。そこでは音の反響は重要な要素となる。おそらく、安全に自分の場所を得るために聴くべき大事な音がある。

一般に視覚と聴覚はどちらが優位にあるか。音楽を見る。例えば、大昔の歴史的記録映像。指揮者が振るオーケストラ。普通に見、聴くことができる。それを音だけにして聴いてみる。音だけでは聴いていられないことがある。

ホワイトノイズ。「ザー」というあの音。昔のテレビで番組の放送が終わったときに流れていた。別名「砂嵐」と呼ばれていた。一般に耳障りなノイズとされる。しかし、きれいな川の映像を映しながら、そのノイズを聴けば音の印象はたちまち変わる。風流な川の映像と融け合って川の音そのものとなる。海辺の映像で音量を上げたり下げたりすれば素敵な波の音ともなる。耳障りなノイズから素敵なノイズ。