2011年8月12、13日、ジャカルタのサリハラ劇場で舞踊作品「パンジー・スプー」が上演された。この作品の公演プログラムからうかがえる製作の問題について、私が書いた批評が全国紙コンパスの21面(芸術面)に8月21日(日)付で掲載され、それに対して、グナワン・モハマッドが書いた反論が翌週28日のコンパス21面に掲載された。ちなみに、この論争はコンパス紙に掲載される前から今に至るまでフェースブック上で続いているので、アカウントを持っている人でインドネシア語ができるという人は、ぜひのぞいて欲しい。今回は、この一連の論争について書いてみる。
「パンジー・スプー」はスリスティヨ・ティルトクスモの作品で、1993年にジャカルタで初演され、1995年までの間に国内、およびオーストラリア、韓国で計23回上演された。ここまでが最初のプロデューサーによる製作である。その後、別のプロデューサーによって2006年にシンガポールで、今年ジャカルタで再演された。スリスティヨは2006年までは作品に出演していたが、今年は出演していない。最初から通して出演しているのは男性舞踊家のパマルディのみで、最初の製作と2番目の製作とで女性舞踊家は総入れ替えとなっている。
私の批判の趣旨は、公演プログラムの書き方のいい加減さには、公演製作の問題が反映されているというものだ。
まず、一番の問題点は、ストラダラ(芸術監督、演出、振付などを兼ねた、作品のすべてに責任を持つ人)のスリスティヨの名前がクレジットされていないこと。演出家とプロデューサーが書いた記事の中でそれぞれ1度ずつ名前が出て来るが、正式なにクレジットがない。にも関わらず、ユディの演出は基本的にそれまでの場面構成や演出をほとんどすべて踏襲しているしかも、再演ならば、普通は元々どんな作品だったのかという説明やそれまでの公演の舞台写真があったりするものだが、1993年に初演したという記述以外何もない。そのため、ぱっとプログラムを読んだだけでは、ユディの新作だと誤解されても不思議ではない書き方になっている。事実、公演を見ていない人にこのプログラムを読んでもらったら、やはりそんな風に誤解した。
さらに、演出家とプロデューサーの文章では、かつて、スリスティヨと作中の歌の歌詞を書いた文筆家のグナワンと作曲家が「パンジー・スプー」をコラボレートしたと書かれている。この記述は今年のプログラムで初めて現れた。1993〜1995年のプログラムでは、この3人のコラボレートだとは一言も書かれていないし、インドネシアのパフォーミング・アーツ事典でも、スリスティヨの作品として明記されている。さらに私が当時のオリジナルキャスト全員にヒアリングしたところでも、振付に関してはスリスティヨと他の舞踊家がコラボレートしているが、あくまでも作品の責任者としての作者はスリスティヨである、後の2人は詩と曲を提供しただけで、コラボレートしたと言えるような関わり方ではない、という見解で一致している。
また、初演からずっと出演している唯一の舞踊家で、作品の中で主役の王を演じるパマルディの名前が、サリハラ劇場が出している月間プログラムやブログサイトには出ていなかった。それなのに女性の踊り手の名前だけが出ている。これは全くおかしい。パマルディは現役芸大の先生で今年で53歳。あとの出演者は20代から30代初めで、彼女たちは群舞である。さすがに公演プログラムに名前は入っていたが、格下の女性の踊り手、男性の補佐的な役割をする出演者とまぎれるように名前が出ていて、これは失礼な扱いだ。
つまり、1993〜1995年の上演の歴史、上演に関わった人の名前が意図的に消される一方で、かわって、新たにコラボレーターを名乗る2人が作品を乗っ取ろうとしているかのような印象がプログラムから読みとれてしまうのだ。なので、プログラムを作成するに当たっては、原作者と作品の歴史を尊重して言及した上で、今回の再演についての情報を掲載すべきだと主張した。しかしそれに対するグナワンの反論記事はかなり感情的で、「スリスティヨはパンジー・スプ―のストラダラではない」、「だれが”白鳥の湖”初演のストラダラのことなど気にする?」とはっきり書いている。(しかし、”白鳥の湖”の初演情報はかなり残っているのだが…)
サリハラはグナワン・モハマッドがパトロンとなって作った芸術家集団が運営している。グナワンはスハルト時代に言論の自由を求めて闘争したジャーナリストで、テンポ誌の創刊者の1人だ。芸術、メディアの先鋭的な集団であるサリハラが作ったプログラムとしてはいかにもお粗末だという以上に、サリハラにしてこのレベルというのが私には非常に残念だったし、言論の自由を求めるグナワン(の集団)が他の芸術家の作品を食い物にするという現象に、皮肉なものを感じ取る。
私の記事が新聞に出て、思った以上に反応があった。私に賛同するという反応がメールやSMS(携帯電話のショートメール)や電話で数多く届き、また、フェースブックでは友達リクエストが激増した。もっとも、プログラムの記述なんてどうでもいいじゃないか、という反応もあったが…。傑作だったのは、「インドネシアには、作品の経歴を大事にするという発想も、公演プログラムが大事だという発想もなかった。あなたの意見はとても新しい!」という感想。
興味深いのは、私の記事に反応してくれた人の多くが美術家、作家、芸術イベントの製作に携わる人、ネットワーカーである一方、パフォーマー、しかも伝統芸術分野の人の反応がとても鈍いことだった。美術家、作家が鋭く反応してくれたのは、著作権の概念が確立している分野だからだろう。私が記事で書いたような事件はパフォーミング・アーツで起こりがちであるので、しかも実はこのスリスティヨというのは、インドネシア観光文化省の芸術局長という、この分野では有名な人なので、舞踊家や音楽家がもっと反応してくれると期待していたのに、声をひそめている。自分の問題として捉えていないのか、サリハラが恐いのか(事実、パフォーミング・アーツの人でサリハラを批判する勇気のある人はいない、と私に言った人もいる)、それがちょっと残念だ。