掠れ書き(2)

高橋悠治

音楽が通りすぎた痕跡を紙の上で見通せるように、構造に還元し、それを生み出す方法を推測し、理論やシステムにまとめる。こんな分析には足りないものがある。

聞こえる音のなかから、いくつかの音のかたちをききとる。それらの音を指先でなぞりながら、音のうごきを身体運動と内部感覚に移し替える。そのような経験からはじめて、そこからちがう軌道に踏み出してみる。停まりそうになったら、どこかにもどってやりなおす。このプロセスは即興でもあり、作曲でもある。即興はその場の聴き手の共感が感じられるあいだはつづく。聴いているひとたちの自発性が、じっさいはその即興に干渉し、その道筋をつけている。失速しないうちに、完結しないように、音を中断して、想像力だけがまだしばらくはうごきつづけて、どこともなく消えていくように誘うのはむつかしい。

作曲は、計画された即興とも言える。楽譜に書かれた音のかたちは、一定の意味や情報と言うよりは、さまざまに見えるインクのしみのようだ。演奏は一つの見かたにはちがいないが、それがまたさまざまな聞こえかたや聴きかたにひらかれている。聴き手の主体性をスペクタクルで惑わしたり、反復パターンで麻痺させれば、演奏は支配の道具になってしまう。聴くよりどころになる回帰するパターンは、筋感覚的運動イメージと同時に起こる。それは個人の内側のもの、一人称的表象と言われているらしいが、むしろ無人称の視覚像にならない感覚ではないだろうか。回帰はただの反復ではなく、もともと隠れていた逸脱の芽、わずかな歪みが、回帰のたびにちがう回路をひらくように仕組まれている、それはベンヤミンが書いていたカーペットの模様のほころび、あるいはラドクリフ=ブラウンの注目した籠の編み残した目、「魂の出入り口」。

楽譜は、何世紀もかけて洗練されてきた表記法だから、図形楽譜のような発明はなかなか共有されなかったし、すべてを最初から定義しなおす試みはわずらわしく、演奏者の自発的なうごきをさまたげる。だが、それらの記号の集まりは、5線記譜法の場合は18世紀的な合理主義を背景にしているし、日本の伝統的記譜法のようなものは、流派の排他的な符牒だったりする。精密に書こうとすれば、思わぬところで過去の音楽の構造に囚われるだろう。まったく新しい発明もできないし、そのまま受け入れることもできず、部分的につけたすのも有効でないならば、逆に、記号の有機的関連を断ち切り、粗いが繊細に使える表記法をくふうしてみる。粗さは要素の数がすくなく、まばらだが記号の適用範囲が一定でなく、領域があいまいで、配置によってちがって見えるような状態、繊細さは思うままにうごくのではなく、うごいている波の合間に現れる足掛りを伝って、落ちないように渡っていく、細く、いまにも切れそうな蜘蛛の糸、夢にあらわれる小径のように、どことなく見覚えがあるが、ここには二度ともどれない予感を手放さずに、一歩ごとに辿る足元から崩れていく、一歩ごとに前の一歩を忘れていく石庭の風景。見られているのを意識しながら回しつづけるネズミ車。