方法からの離脱

高橋悠治

クセナキスの音楽に惹かれてピアノ曲を委嘱したら、『ヘルマ』の楽譜が送られてきた。確率論と集合論を勉強するように言われ、確率論からはじめ、電子音楽『フォノジェーヌ』もクセナキスとはちがう、自分で考えた確率論的方法で作曲した。その後ヨーロッパでは数理論理学の本をよんだ。ウィトゲンシュタインの『論理哲学要綱』では、論理学からはずれて存在のふしぎに向かっていく後半が好きだったし、ブローウェルの直感論理学やクワインに興味を持った。排中律の否定と、この黒犬やあの白犬がいるばかりで「イヌ」というものは名前にすぎないという唯名論に共感していた。

でも、その頃の作曲では、確率論や古典論理を応用するコンピュータ使用に向かっていた。確率論的には、細部の不確定は全体の構図を変えることがない。論理的には、体験は信条を変えないということになるだろう。文章を書くと、ことばのリズムを切りつめていくと、ひとつひとつちがう現象からつくられる予測不可能な空間ではなく、抽象化した表現、定義やアフォリズムのように見えてくる。

目的があれば、そのための方法がある。使われた後も、方法だけが残るならば、それがいずれはさまたげになる。いっぽうで、体験をかさねると、全体の網はすこしずつゆるんでいき、それとは知らずに別なものになっていく。言語ゲームや家族的類似は、そういうゆるやかなつながりへ向かう傾向を指しているのかもしれない。そこでは日常の時間のはたらきがたいせつになる。休まずにつづけるのではなく、中断しながら、すこしずつすすめる。ちがうものがはいりこんだり、逸れていってもかまわない。流れは低いところをみつけながら、自然に海へ向かう。空間の枠だけでなく、時間もゆるやかなものになる。

うごかそうとするのではなく、遠くからのささやきにうごかされて、すぎてゆく。