しもた屋之噺(87)

杉山洋一

10年前の98年11月、シチリアはカターニアとメッシーナに出掛けたときの日記。
「一人でぼうっとメッシーナから対岸のカラーブリアを眺めていると、堰を切ったように昔が思い出されて、視界がくぐもって見えた。祖父が網元だったので、子供の頃、沖に出てはきす鱚や鯒を釣り、たらふく食べた。あの海がここまで繋がっているのだなと思う」。

10年ぶりのシチリアは、それは寒くて驚きました。カターニアの空港は底冷えし、椰子の木は寒々しく風にゆれています。初めに訪れたメッシーナは周りが暗くなるほどの土砂降りで、雨宿りしようと入ったメッシーナ中央駅に流れるアナウンスも、「天候不順のためパレルモからの列車は予想不可能の遅延」、という耳を疑うものでした。タクシーに乗りたくとも、駅前に並ぶ6台のタクシーはどれも客引きつきの怪しげな白タクで、結局、路面電車に飛び乗り、ホテル近くで降りたところまでは良かったのですが、誰に道を聞いても、あちらへ行けこちらへ行け、この辺りではない云々と散々振り回された挙句、文字通りのドブネズミとなり、おかげでしつこい風邪に悩まされることになりました。なにしろシチリアはイタリアの南の端で、普段とても暖かいため暖房設備が整っていないのです。ですから、前日パレルモで積雪したほどの強い寒波に見舞われると、ミラノより余程身体が凍えてしまいます。

でも、メッシーナへ向かう車中、タオルミーナ前後だったか、長いトンネルを抜けた瞬間、眼前一杯にカラブリアが広がったときには、言葉を失いました。不思議なもので、思わず「ああ、イタリアだ」と心の中で叫んでいました。茫とした海の向こうにせりあがるカラブリアの姿は、山の頂に美しい白い雪も降りかけられて、それは美しいものでした。

今はフランスに住んでいるピアノのトゥーラの叔父さんがメッシーナ郊外に住んでいて、10時半過ぎ演奏会が終わると、メッシーナで夜半に開いているレストランもないからと自宅へ遅い夕食に招いてくれて、まるで10年来の友人のようにもてなしてくれたのには感激しました。料理からワインに至るまで、全て彼の自家製で、それは美味でした。たかだか一粒オリーブを食べて鳥肌が立ったのは、後にも先にもこれが一度きりの経験です。2時過ぎに漸く食後のもいだばかりの瑞々しいオレンジをいただき、メッシーナへ戻りました。

シチリアで朝食にジェラートを挟んだパンを食べるのは知っていましたが、せいぜい暑い季節の床しき愉しみ程度に想像していたのです。ところが翌朝、寒空の下、老いも若きもメッシーナ風かき氷に嬉々として巨大なパンを浸しているのを見て仰天しました。あなたもお上がんなさいと随分勧められましたが、あの寒さでは食べられたものではありませんでした。

翌日の演奏会はカターニアのビスカリ宮殿の豪奢な大広間で、気がつくと暖炉に火が入っていました。訥々としたジェルヴァゾーニ作品を演奏しているときなど、パチパチと静謐に薪のはじける音が沈黙に忍び込み、独特の余韻を醸し出します。ゲーテも訪れたフリーメーソンの秘密集会場、儀式会場だったビスカリ宮殿の大広間は、目まぐるしい程のロココ装飾に一面覆われています。言われるがまま祭壇の左右に据えられた石柱を見れば、なるほど確かに逆さまに誂えてあって、フリーメーソンに纏わる魔笛や39番などのモーツァルト、特に変ホ調の神秘的な響きが染み通ってくるようです。

翌日ミラノに戻って間もなく、ライヒやタン・ドゥーン、フェルドマンなどの練習のためボローニャと往復することになりましたが、今やミラノ・ボローニャが1時間足らずで移動できるようになったことに改めて驚き、ボローニャがミラノより余程寒いのも意外でした。気がつけばボローニャの演奏家たちと会うのも実に1年ぶりで、時間の早さに舌を巻きます。当初はボローニャ大学で開いていた演奏会が、いつの間にかコムナーレ劇場のフォワイエになり、何も知らぬまま演奏会に出掛けてみれば、今回はコムナーレ劇場の舞台で演奏会を開いていて、厳しい世情の折、こうして堅実に発展している友人たちに心から感嘆します。

今回初めて演奏する作曲家ばかりでしたが、それぞれにとても違って演奏は新鮮でした。ライヒなど中学生の頃よく聴きましたが、実際演奏してみると、独特の感動が演奏者全員の裡に、静かに沸きあがってくるのです。没我して音に溶け込むと自然に立ち昇る空気があって、聴衆も心を動かされるのでしょうか。驚くほど長い間、拍手は止みませんでした。

ミラノに戻って、幼稚園の門前、子供たちが無邪気にカーニバルの紙吹雪をかけ合う姿に思わず頬が緩みました。

(2月27日 ミラノにて)