反システム音楽論断片(二)

高橋悠治

コンピュータのなかの疑似乱数は初期値が決ればそっくり再現される はじめ新鮮に見えた予測できないうごきも 回をかさねて予測できなさが予想されるにつれて ある顔をもつことになる クセナキスの使った確率関数も ケージの易占も 論理的にはアルゴリズム思想 認知主義と言えるだろうが いままでになかった音をもたらしたこともたしかだ

コンピュータのように孤立した記号と それと相対的に独立した規則を組み合わせた操作で作る表象世界は 啓蒙主義の作り出した機能和声の究極の姿であったシェーンベルク流の音列操作以後のトータルセリエルと同時代の考えかたで そういう背景からアルゴリズムによる作曲法が生まれた

クセナキスはコンピュータによる作曲オートマトンを試みて その成果に失望していた 60年代にコンピュータを使った作曲では多数の結果から 音楽的におもしろいものだけを残して組み合わせる 作曲家の判断が介入して いままでになかった音の雲の移りを生み出した その後古代ギリシャからビザンティン文化にかけての音階論の研究から 論理演算によって非周期的音階を作る「ふるいの技法」と音運動のベクトル的協調による集合メロディーの「メドゥーサの髪」によって アルゴリズムを必要としないテクスチャーの貼りあわせで オーケストラ曲を書き それは単純化されたクラスターに収斂していった

ケージの易占の発見は 1950年代のはじめ ヴェーベルンの『室内交響曲』上演の衝撃とほとんど同時に起こった ヴェーベルンの音楽を音列の展開として 抽象に還元するのではなく 孤立したピッチの不規則な反復として 耳に聞こえた現象から方法化したのが フェルドマンの音域と時間単位を格子状にしたグラフィックであり 数個の音の組み替えと音色変化によるクリスチャン・ヴォルフの作品であり おそらくそれらの影響からケージの孤立した音色を易占で配置する作品が書かれたのだろう

最晩年のケージは 易占をコンピュータアルゴリズム化しながらも 水墨のような音の内部変化を多層時間に分散並列化したナンバーピースを創り アルゴリズムからセルオートマトン的な音響空間の創発を試みた

これらの作品は たしかに方法と介入を使い分けながら 未知の音の道を切りひらいた そのために使われた方法 アルゴリズムや カオス フラクタルを含む複雑系の考えかたは いわば乗り捨てられた筏にすぎない その後これらの方法を使っても はじまるものは何もない 介入なしの方法は自立できない

アルゴリズムは 要素と操作 あるいはデータとプログラムを分離する 複雑系の方法は いまのところニューラルネットワークのように 複合的なアルゴリズムにすぎないのではないか 疑似乱数は 単純化されたシミュレーションモデルを作るのがせいぜいで パターンとしての単調さから逃れられないから 視点の転換をもたらすようなアートには追いつけないだろう

それにもかかわらず 先駆的な実験が さまざまに読み取れる「はじまり」の地点であったとすれば そこにはたらいていた介入 攪乱 繊細さなど 身体化された あるいは身体に埋め込まれた心のはたらきを追求するところから 次への道が見えてくるのではないか それには 理論や方法よりも じっさいに身体をうごかして観察する現象学 あるいは瞑想が最も直接的ではないのか

今の段階では コンピュータはプログラミングやデータという操作主義からはまだ自由ではないし 複雑系のロボットも手の自由さにはほど遠い コンピュータやロボットが手のうごきにあらわれるような 言語的・歴史的・文化的・社会的文脈を理解するのはいつの日か それとも そんなことはもう期待されてはいないのだろうか

それでも アルゴリズム コンピュータアート メディアアート エレクトロニクス ノイズ 音響系などがないとやっていけない人びとの政治的・文化的・心理的状況がある 『道はない だが進まねばならない』というノーノのタイトルだが この世界に根拠はない だから根拠が必要だ というのは いったい何だろう