しもた屋之噺(168)

杉山洋一

低く暗い雲の立ち籠める大晦日の朝です。机上の樅の苗木は一昨日息子がアルベンガから持ち帰りました。庭の松も十年前に植えたときはずっとささやかなものでしたが、今では二メートルを超えるまでに成長しています。
二年ぶりにミラノを訪れた母と十歳の息子が同じ背丈で、息子の長靴で寒をやり過ごしたり、並んで台所に立つ後姿に感慨を覚えます。甘えるだけの東京での再会と違い、言葉が覚束ない祖母をミラノで迎えるのは、息子の責任感を駆り立てるのか、驚くほど頼もしく感じられます。

  —

 12月某日 ミラノ自宅
「火の鳥」のテンポを読み返しているのは、速度記号の単位が版でずいぶん違うから。実際に演奏可能の速度かは一先ずおいて、作曲者が何を意図したかを把握する。
指定速度が時代を追って遅くなるのは、演奏した実践結果に基づくものだろうし、初版でアッチェレランドとされた部分が、19年版で均一速度に統一したのも演奏上の都合かも知れない。

指定速度の単位が四分音符であったり八分音符であったり、附点四分音符だったりとまちまちなのは誤植と思しいが、どれが正しいか判断に悩む部分もある。19年版終章直前のコラールの不自然さは、本来テンポすら違う二つの素材が重ねられているからだが、和音も所々歯抜けになっていて、流石に音を直したい欲求に駆られる。19年版では「Moderato」など速度に関する表情記号はほぼ削除され、作品全体が無機質で合理的な音楽に仕立てあげられている。
尤も、作品も作曲者も時間と共に変化するのは自然の摂理であって、演奏が作曲者の意図を汲むべきものとするなら、どの時点に於ける作曲者の意図を目指すべきかも懸案とされるべきではないか。初版の初演前に意図した鮮烈な音像と、何度も自分で演奏し、角が取れ整理された音像とでは、たとえ見栄えが違っても同じ作者の別側面を表出する。近代作品ですらかかる問題を孕むのだから、況や古典やバロックの演奏解釈で喧々諤々になるのは当然だろう。

ローマのオペラでドナトーニの「Prom」をやる、とティートから電話。
「この音は本来このパートと同じだと思うのだけれど」、「ここに速度記号の抜けていると思う、直したいのだが」、と矢継ぎ早に質問を受ける。
自分はこう解決したと説明しながら、ドナトーニは自らの書き損じを甘んじて肯定していたのを思い出し、ほろ苦い心地になる。つまり本来手直しの必要はない筈だが、演奏する立場としては整合性から手を加えたくなる。二月にミラノで演奏する四人の女声とオーケストラのための「Fire」の譜読みしていて、何箇所か訂正したい欲求は抑えがたいから、ティートの気持ちは理解できる。

 12月某日 市立音楽院にて
朝は乳白色の霧に包まれている。幻想的と言えば聞こえは良いが、要は秋以降の雨量不足による大気汚染の悪化に過ぎぬ。
朝一番、エミリアーノに「ジュピター」のレッスンをしながら、一秒ごとに違う場所から音楽を眺めるよう奨めてみる。上から音楽を見下ろすと、旋律の頭が先ず目の前にあって、その下に内声の骨組が橋桁のように広がり、遥か彼方に低音の動きが垣間見えるし、下から見上げれば、低音の足の裏の向こうに、内声の足取りが見え隠れする。先回りして前面からまじまじと見てもいいし、後ろからそれぞれの音符の背中を目で追うのもいい。斜めに走る音の断面から、また違った音のバランスの発見もあるだろう。音楽そのものの足取りは邪魔せずに、我々の視点のみ瞬間移動し続け、音の質量を三次元で浮上がらせる試み。同じ視点から音を観察し続けた瞬間、音楽は途端に平面的でつまらなくなる。

その昔家人がメッツェーナ先生のレッスンを受けていて、四声のコラールの各声部のバランスを不規則に変化させて弾くよう指示されたのに、当時とても愕いた。
音楽の質量や質感は本来とても不安定で不規則で人間的であって、外声内声と役割分担させるべき機械的物質ではなかった。「声」は本来かかる凸凹のある空気振動ではなかったか。ロマン派以降では、感情移入や表出といった別の側面も考慮しなければならないが、モーツァルトやハイドンで音と音との空間を感情で埋めると、呼吸できない。

先週、ドイツでCD録音するカルテットにヴェルディの弦楽四重奏を聴かせて貰ったときも、同じように「音像を廻してみて」と頼むと、彼らがそれを由とするか否かはさておき、人間臭さというか古臭い懐かしい響きが立ち昇った。フィオレンティーノは「最近のピアニストはみな和音を崩さず几帳面に同時に鳴らすのがお気に入りだが、崩した方がずっと複雑に倍音が交じり合って音の立ち上がりが豊かなのに、実に勿体ない」とインタヴューで零していたが、技術やテクノロジーが進化する程に、退化し廃れゆくものもある。我々は一方的に進化していると錯覚しているが、対価として常に何かを失ってもいる。

 12月某日 ミラノ自宅
今朝もひどい濃霧で息子を学校に送ってゆくと目の前が見えない。
息子は朝、転入生の徐くんに中国語を教えて貰うと云って、中国語のテキストをコピーし張り切って出掛けた。徐くんは夏前にイタリアにやって来たばかりで、未だイタリア語が覚束ない。だから登校して出欠を取ると、すぐに特別クラスに呼び出されてイタリア語を中心とした集中講義を毎日受けている。クラスに戻るとイタリア語を解さないのを良いことに、卑語を教えてはからかう同級生が多い。息子は徐くんと漢字で筆談できて愉快だと言うのだが、彼の説明を聞く限り、互いに随分突飛な誤解を生んでいるようだ。尤も、からかうよりはずっと良いから、もっとやりなさいと励行している。

同級生たちは、徐くんはイタリア語を学ばなければいけないから、中国語など持っての外と詰るそうだが、その挙句卑語を云わせては笑うので始末が悪い。徐くんは実はカンフーの名人で、からかうと酷い目に遭うぜと嘘を吹き込めと息子に言うと、徐くんが運動神経に長けた風情は皆無だから駄目だという。徐くんは丸々と恰幅好く、人の良い印象だ。からかう連中の筆頭は長年少林寺拳法を習っているDで、母親は一流大学の語学の教授職、父親は人権派弁護士。母親はクラスの父兄代表だが相談できる雰囲気ではない。因みに徐くんは、英語と数学は好く出来るので、分からないと英語で説明を受けている。

 12月某日 テルニよりローマに戻る車中
Mさんよりお便り。
「日本は極東の果てで、ヨーロッパなどから遠く取り残された場所だと思います。そんな地理的条件に今まで護られてきたのでしょうか。一時期、経済大国第二位にまでなり、日本人は名誉白人にでもなったつもりで、でもその割には今ヨーロッパで起こっていることは遠い場所の出来事という空気になりつつあります」。
カリフォルニアでは銃乱射、ロンドン地下鉄ではナイフで暴漢が市民を切り付けたばかりだ。

今日初めて訪れたテルニは、小さな美しい町だった。スタジオに着くと丁度アルフォンソとセレーネがマンカの作品を録音しているところだった。セレーネが中世フィレンツェの聖マリア・マッダレーナ・デ・パッツォというカルメル会修道女の奇怪な幻視録を朗読し、傍らでアルフォンソがピアノを弾く。恍惚と陶酔に満ち溢れる彼女の幻視は、宗教的というより寧ろ官能的だ。

「そこに現れたる聖アウグストゥスが、彼女に彼女が望む言葉をどうぞ書き刻み下さいますことを!その場所に彼女は歩を進めて彼に云うのでした。迸る血潮なら此方にございます、インキ壺の蓋も開いております。おお聖アウグストゥスよ、急いて下さいまし。あの聖なる焔と云わしめる甚だ高邁なる心に、書き刻んで下さいまし。それはもはや愛ではございません。最早、愛ではございません。ああ私のキリストよ。貴方が苦しみに耐えながら、私が苦しみを味わわずどうしていられましょう。私に千の命があったなら、全て貴方に捧げましょう」。

ヒルデガルトやメヒティルトのようなドイツの女性神秘主義者を思い出しつつ、延々と続く陶酔に嬉々として聴き入る。帰りの車中、自作の録音の立会いに行った筈が、すっかり君の作品に惹き込まれた、とガブリエレに連絡した。ペンをとる聖アウグストゥスの前に膝まづき、胸に聖なる言葉を書き刻んでもらおうと身を投げ出す彼女を描いた絵が、フィレンツェに残されている。深い陶酔状態の聖女たちを描く宗教画は、時として官能的だ。

 12月某日 ミラノに戻る車中にて
母の達ての希望で息子と三人でローマに出掛ける。
早朝、眼下に朝焼けのテーヴェレ河を臨むと、ヴァチカンはサンピエトロの穹窿が真っ赤に染まっている。街中どこかしこも警察と軍の警備が物々しい。テロの危険を肌で感じる。気温は5度。母と息子は「あんたがたどこさ」で遊んで身体を温めている。
昨晩、母と息子が初めて口にした「牛胃トマト煮」を何杯もお替りするのに愕き、ザンポーニャ吹きとチャルメラ吹きがフラミーニア通りを流す姿に心を躍らせた。ローマでは、冬になると未だ山からザンポーニャ吹きが降りてくる。

カラカラ浴場やコロッセオを巡りながら、十歳の息子は祖母に歴史や風習をさかんに大声で説明した。授業で習った床のモザイクなどを実際目にして興奮が抑え切れないようだ。人影まばらなカラカラ浴場で、「何故これほど大きなお風呂が必要だったの」と母は繰返し感嘆したが、確かに富士山の壁絵の日本の銭湯とは規模が違う。その割に、残されているアッピア街道の路肩が案外狭いのが不思議だった。

 12月某日 自宅にて
ドナトーニ「Fire」譜読み。ワーグナーの引用箇所が明確になって、漸く全体の謎解きが氷解しつつある。当時ドナトーニはワルキューレのレコードをかけながら仕事していると笑っていたが、意味が分からず戸惑っただけだった。
諧謔的に「死」を扱う「Fire」の「焔」と、ブリュンヒルデを眠らせる「火」が繋がっていて、最初に表れる「フニクリ・フニクラ」の動機は、火山へ登る登山電車から採られている。ではジークフリートの引用の意味は何だろう。末尾ではショパンの「葬送行進曲」とその第二主題が重ねて使われている。少しずつパズルが解けてくると、グロテスクに見えてくる。
女声四人の存在も「ワルキューレ」と無関係ではないだろう、とマリゼルラに話すと、「きっとこればかりは後天的に繋がった伏線じゃないかしら」と笑った。「Esa」の素材の端々が、実は変わり果てた「フニクリ・フニクラ」の断片だったりして、荼毘に付された白い遺骨を拾う錯覚に陥る。
耳が少し遠くなった母が日本に戻ったので、話し声が静かになって寂しいと息子が少し泣く。

 12月某日 ミラノ自宅
息子は最近同級生の中で特にフィリピン人のエドリックと仲が良い。息子と同じようにフィリピン人の夫婦のもとミラノで生まれた。週末は教会の合唱隊で歌っているという。或る時、そのエンドリックが息子に向かって「でも日本は昔フィリピンを二回征服したんだ」と話したと聞いて愕くばかりだった。突然のことに、息子は「昔は日本人も間違ったことをしたかも知れないけれど、今の日本人はもうそんな事はしないから」と答えるのが精一杯だったそうだ。ミラノ生れの10歳のフィリピン人が、日本人という単語に過去のフィリピン征服を思い起すことに衝撃を受け、いつも微笑みながら挨拶を交わすエドリックのお母さんとエドリックが、そんな風に日本について話すところを想像して、少し悲しくもなった。第一、いつもはしゃぎ回って先生から大目玉を喰らう役のエドリックが、政治や戦争について話すのも意外だった。
日本がフィリピンを二度征服したという本意は不明だが、少なくとも彼らからそう受取られる歴史的事実があったのだろう。「バターンの行進」と「マニラの虐殺」を差しているのかも知れない。政府間での戦後処理裁判はさておき、友人関係において大切なのは、何が正しいかを互いに主張するより寧ろ、相手がその事実をどのように理解しているかを正しく理解し、どうすれば納得できるかについて、率直に話し合うことかもしれない。エドリックに向かって、日本軍がフィリピンを植民地化したのは一度きりと息子が主張したところで、エドリックの心は頑なに閉ざされるばかりだったろう。
フィリピン人から見た戦時中の日本軍の行動が、我々日本人の認識と違っていても仕方がない部分はあるだろう。何しろ立場は全く逆だったのだから。フィリピンが太平洋戦争で日本とアメリカの戦場に選ばれてしまった不運の地であることには変わりがない。
解決を見たことになっている韓国との慰安婦問題は、既に国家間の補償問題に発展しているから、エドリックと同じように扱えないのは当然だが、彼のふとした呟きに、韓国の人たちが納得できない想いの一端を垣間見たような気がした。

(ミラノ 12月31日)