機銃の静かな重さをこぼすまいとして指は聖水を掬(むす)ぶように母の骨を組んでいく。あるパーツの骨に手が触れると、おのずと片方の手がもうそれと合わさる骨に触れている。誰に教わったのでもないのに、印をむすぶ手のゆるぎない信仰の証しのように、わたしの手は母を組み立ててゆく。
音がする。無音の音がする。
母が軋む。その無音の軋みに、わたしの呻きを嵌め込む。
母の骨といっても、人形だから、おのずと組み立てることができる。粗方の技は、しかし粗雑とは違った。母が生きていたときは、わたしでさえ人形であるとはつゆも思わなかった。魂(たま)の抜けたこの人形を組み立てるときにはいつも、それが母のどこに棲みついていたのかという思いにとらわれた。
母の股間に手を入れると、母は息を一息入れて、目覚めた。股間に触れると、母の起動装置がはたらいて、魂があかるみ、蜉蝣の翅のような被膜が組み立てた母の骨格を覆って、スケルトン状のアンドロイドになる。
おじょうずだね。
母はわたしを息子だとは思っていない。若い情夫とでも思っている。わたしはスケルトン人形の母をあやつり、母の声色(こわいろ)で物語を語る。
そんな古風な門付けを受け入れてくれる山間の集落や辺境の島が、いまもあるとはふしぎだ。
母の骨をトランクに入れて、わたしの道はおのずと《あがり》の島へ続いている。
それが、名井島と聞いたのは、まだわたしが、母が人形であることを知らないころのこと。けれども、だれに聞いたのかは、思い出せない。