その日は夕暮れへ近づくにつれて薄い膜のような雲が空に張られ、淡いピンク色を帯びていた。冷たい風がゆるやかに街道を通り抜けていく。手も顔も耳も、すっかり冷たくなってしまった。
東京にしてはやけに寒い日が続いている。道端には1月下旬に降り積もった雪が残り、道ゆく人々が凍結したところを注意深く避けて歩いている。
地下鉄の駅から地上へ出て空を見上げると、薄ピンクの雲は消え去り、深い藍色の空に変わっていた。建物の隙間から見えるオリオン座が冷たく明るい。
ときどき気にして見るようにしている星座がある。秋から冬にかけて空の低いところに大きく横たわる「くじら座」だ。暗く見通しのいい場所でしか見ることができない。星と星を線で結んだかたちはかなり滑稽なのだが、ギリシア神話の化けくじらをなんとなく想像することができる。
くじら座の心臓のあたりには「ミラ(Mira)」というおよそ332日の周期で明るさを変える変光星がある。
ミラはラテン語で“奇妙な”、“不思議な”という意味で、まったく見えないほど暗くなったかと思えば、ぼんやり妖しく光っていたり、2等級(北極星ぐらい)ほどの輝きになったり、気まぐれに色んな表情を見せてくれる。
そのミラが今年に入ってさっそく明るく輝いているという。自宅付近でなるべく暗い場所を探し回りながら(傍から見てかなり挙動不審だったかもしれない)空を見上げる。
ネオンや街灯が溢れる街の中では、明るい星だけが選ばれたかのように輝く。澄み切った空を人里離れた暗い地で眺めたら、きっとおびただしい数の星が見えるに違いない。
オリオン座やおうし座の1等星から目を凝らして空をたどると、肝心のミラはかなり密やかな、オレンジ色の仄明かり。
ミラは日に日に暗くなっていき、夏にはまた夜闇に紛れてしまう。
灰色の綿のような雲がぽつぽつと現れては流れ、冬の星は西へ傾き、ミラも沈む。夜の冷気に巻き付かれるまえに自宅へ戻ることにした。明け方前の空には春の星座が昇るが、地上の春はまだまだ遠い。