見上げるように高い白漆喰の土蔵。堂々として重厚な黒壁の店蔵…。目を見張るような土蔵があちこちに残っているのに驚きながら、初めて福島市飯野町を歩いたのは2010年のことだった。
「地元学」という活動のサポートのためだ。「地元学」は地域活動の手法の一つで、30年ほど前に仙台と熊本で始まった。地元住民とよそ者がいっしょに歩いて、風景をあらためて見つめ直し足元に眠る資源を再発見していく。毎日見慣れているものも、外からの目で別の視点で見直せば、光を帯びてくるというわけだ。
飯野町は福島市の北東端に位置する地区で、2018年に福島市に合併するまでは単独の小さな自治体だった。その中心に不釣り合いなほど充実した町場が形成されていて、時代はくわしくわからないが近代以降に建てられた造り酒屋や味噌醸造屋などの豪壮な土蔵が残っている。また、明治末に建てられ芝居小屋や映画館として使われた建物が、緞帳も映写機もそのままに静かな時間を刻んでいる。
そして、2、3の神社には実に立派な石鳥居が築かれ、それらは江戸時代に信州高遠藩の石工たちが出稼ぎにきて、地元の石工たちを指導しながら建てたものであるというのだった。ちなみに阿武隈山地は花崗岩の産地で、山間にはときどきごろりと巨石が横たわり信仰の対象になっていたりする。
確かにここには明らかに、とてつもなく豊かな時代があったのだ。数々の遺構はそうはっきりと物語っている。その豊かさは、絹が生み出したものだ。江戸時代から阿武隈山地一帯は養蚕が盛んな土地柄で、明治期になると絹は輸出品の花形となり、農家は春から晩秋まで養蚕に精を出した。蚕には様を付けて「おかいこさま」とよび、家の中はお蚕様にのっとられるほどであった、と年配の人々はいう。
ほとんどまだ誰にも知られていない資源群。私はすごいすごい、おもしろいとつぶやきながら土蔵や鳥居や、境内の狛犬の写真を撮って歩いたのだったが、地元の人たちにはいまいち伝わらないようだった。
そうこうするうち東日本大震災が起きた。町内の道路の法面は崩れ落ち、巨石は大崩落し、何より原発事故は外を歩くことさえ困難にした。除染作業が始まり、農地は放射能の軽減のために天地替えやゼオライト散布が行われた。地元学の活動を続けるような余裕などなくなり、活動は中断したのだった。
1年後、除染作業が続く中で活動は再開したのだけれど、もう私は地域を捉え直すための地元学活動をどう考え、何をどうしたらいいのか正直わからなくなっていた。せめて、この大災害と未曾有の事故の現実を写真に残そうと参加した人たちに伝え、それまで撮影した写真に文章をつけてもらい、1冊の冊子を編んで納品し、その後飯野町を訪ねることはなかった。脳裏には町の風景が生き生きと刻まれてはいたのだけれど。
今年5月、携帯が鳴ってなつかしい声が響いた。斎藤憲子さん。飯野町の地元学活動で人一倍がんばってたくさんの文章を書き、子どもたちを引き連れて町内を歩いてくれた人だ。「冊子は上がったのに話ができなかったし、みんな歳をとってきて活動は停滞気味。あらためて冊子を読み直すところからやってみようかと思って」と話す。7月中旬、6年ぶりに飯野町を訪ね、活動に参加してくれた人たちと再会を果たした。
亡くなった人もいたが、みんな元気だった。
それにしても勉強好きの面々でなのである。斎藤さんは子どもたちに飯野町の民話を伝え伝統遊びを教え、毎年春の吊るし雛まつりにかかわり、観光ガイドの会も主宰している。町内の巨石群を調べ歩いた人がいるかと思えば、自宅の畑から安土桃山時代に輸入され貨幣が発掘されたと話しかけてくる人もいる。そして首都圏から移住してきた人は、これからの飯野について真剣な議論をしたがっている。
そのようすを見ていて、この町は江戸時代から文化的活動が活発だったことに思いあたった。『飯野町史』によると、18世紀の終わり頃から村々には、書、絵画、
俳諧、和歌、狂歌、お茶、挿花、将棋などのサロンが生まれ、合評会を行ったり、別のサロンと交流したり、と熱心な学びの活動を展開している。江戸に出かけて学んだり、他地域の名人と交流したりもあったろう。そしてその主役には武士層だけではなく農民もいた。和算も盛んで、中には100名を越える弟子をとるものもいたという。
これもまた経済的余裕が生んだ生活のゆとりといえるものかもしれない。おそらく養蚕がもたらした余裕なのだろう。晴れた日は田畑で働き、雨の日は俳諧に興じる。そんな生活があり、それは見えないかたちで脈々と受け継がれてきているのだと思える。勉強好きが、学びの意識が、そう簡単に生まれるわけがない。
いまは使われなくなった土蔵を残し苦労しつつ維持しているのも、精神的ゆとりのなせる技だろう。これが例えば仙台のような都市なら、役目を終えたものはさっさと解体されて新しい建物が建つに違いない。でも時間を刻んできた建物が目の前にあることは、住む人に知らず知らずのうちに歴史を伝え、静かな誇りを授ける。あらためて、再会した人たちに声を大にしてそう伝えた。
こういう町は、きっとしぶとい。