8月のジェノサイド

さとうまき

イラクに取材に来た新聞記者が、ネタを探していたので、「8月3日って知ってますか? ヤジディ教徒は歴史上74回の虐殺を受けていて、最後のそれが2014年8月3日だったんですよ」
そもそもヤジディ教徒は、日本ではほとんど知られていなかった。
「8月3日の一面に記事を書いてくださいよ。それって、めちゃかっこいいですよ」とたきつけて、その記者をドホークで避難生活を送る「ナブラスの家」に連れて行った。

2014年8月3日、ISがシンジャールを襲ったとき、銃声を耳にしたナブラス(当時12歳の少女)の一家は慌ててドホークに避難。ナブラスは、7月には、がんだと診断され、ドホークの病院に通うことになっていました。モスルはその時すでにISの支配に置かれていたからです。逃げ遅れたナブラスのおじいさんと息子は、10日間イスラム国の攻撃にさらされましたが自力で脱出したといいます。ナブラスの一族は、建てかけ中の建物を見つけそこで暮らしていました。避難生活と闘病生活が同時に始まったナブラス。

2015年の暮れ、鎌田實先生と一緒にシンジャール山に登り、避難民に支援物資を配り、山を下りると大雨になりました。ぬかるみの中ナブルスの家にたどり着くと彼女はぐったりしていました。先生はレントゲンを見ながら、お父さんを別室に連れていき、ナブルスの死を宣告したのです。「もう長くないから好きなことをさせてあげてください」

数日後も雨の中、安田菜津紀さんを連れていくと、やせ細ったナブルスは、苦しみもがき、そして、疲れ切って、静かに眠りました。安田菜津紀さんは静かにシャッターを切ってくれました。外に出ると、太陽が出ました。奇跡のような光に希望を託しました。空には白い鳩が一斉に飛び立ち巡回していました。数日後彼女は逝きました。
あれから、2年半が過ぎました。灼熱の太陽が降り注ぎ雲一つない青い空。
「ナブラスの家」はまだ建てかけのままでした。ナブラスのおじさんが出てきて、一家が隣に引っ越していったことを教えてくれました。息子が結婚して、家族が増えたので、家を借りることにしたそうです。お父さんは、クルド自治政府軍のペシュメルガで働いていましたが、去年の国民投票の後、シンジャールがイラク中央政府の支配になり、そこでの従軍は無くなりましたが、給料はもらっていて、息子が日雇いの仕事をしているので何とか生活はできているとのことでした。
明るい知らせもあります。

「イスラム国」に連れ去られた姪、当時19歳だった女の子が、昨年の7月13日にモスルが開放されたときに、自力で逃げてきて、ペシュメルガに保護されました。無事に両親のところに届けられました。その女の子は、精神的なケアを受けて、いまでは、そのNGOで働いてます。しかし、男の子はまだ行方不明のままですが。

イスラム国が、去ったあと希望は持てますか? と聞くと、
「状況は変わらないと思います。イスラム教の教えを受けた隣人たちは、いつでもヤジディ教徒を迫害する可能性があるからです」
どうしている時が一番幸せかときたらお母さんは、
「自分たちの生活は苦しいですが、まだましな方だと思っています。楽しいことがあれば、苦しいことを忘れることができますが、またすぐに思い出すのです。何が悲しいかというと、ナブラスのことを思い出しますし、ヤジディ教徒がおわされたこの苦しみをまた思い出してしまうのです」
どういった支援が必要でしょう? と聞くとお父さんは、
「国際社会が、ヤジディに起こったことをジェノサイド(虐殺)だと認めてほしいのです」
息子が結婚して6か月前に赤ちゃんが生まれました。名前をナブラスと付けたそうです。僕たちはナブラスのことを忘れちゃいけないんだと思いました。

8月3日、果たして新聞の一面にナブラスのことが出るのかな?