ここのところ、お世話になった方々が連続して亡くなった。追悼の意を込めて少し思い出について書いてみる。
昨年末の12月29日にはスプラプト・スルヨダルモ氏(74歳)が亡くなった。在野で国内外の舞踊家に大きな影響を与えた舞踊家で、私も尊敬する舞踊家の口からプラプト氏のことについて聞く機会が何度もあり、氏の影響力をつくづく感じたものだ。氏は聖なる場や自然と一体化し、内的なものから生まれる動きに従って踊る人だった。実はサルドノ・クスモ氏と同年(1945年)、同地域(スラカルタ市クムラヤン地域、宮廷芸術家が多く住んだ地域)の生まれである。この2人がジャワの現代舞踊の2大潮流をつくり出したと言って良い。氏は海外で指導することも多く、1986年にスラカルタに開いたスタジオ「ルマ・プティ」では国内外から学びに来る舞踊家を受け入れ、舞踊イベントなども開いていた。私も何度かそこでのイベントに参加したこともある。それ以外に、毎年大晦日から新年にかけてはヒンズー教のスクー遺跡でスラウン・スニ・チャンディ」(遺跡での芸術の集い、の意)というイベントを開催されていた。私も2011年大晦日に声をかけていただき出演したが、観光文化省の信仰局長やスラカルタ王家のムルティア王女を来賓に迎えるほどの規模の大きなイベントだった。
今年に入り、1月18日には留学していたインドネシア国立芸術大学スラカルタ校教員のサルユニ・パドミニンセ女史(61歳)が亡くなった。私が芸大に留学した時に1年生の基礎の授業を受け持っていたのがサルユニ女史だった。私にとっては芸大授業で初めて習った女性の先生である。2度目に留学した2000年、ちょうど芸大に開設された大学院に入学したサルユニ女史は、私がジョコ・スハルジョ女史から受けていた宮廷舞踊のレッスンに、もう1人の教員と一緒に参加してくれた。そして2000~2003年の3年間はずっと一緒にジョコ女史の元で宮廷舞踊を練習し、2002年にはジョコ女史も入れて4人で芸大大学院の催しで『スリンピ・ラグドゥンプル」完全版を踊った。その翌年にはジョコ女史の息子が振り付けた公演でも一緒に踊り、2006年と2007年に私がスリンピとブドヨのプロジェクトをして3公演を制作した時にもすべて出演してもらった。芸大の授業では先生は見本を見せてくれるとは言え、最初から最後までついて踊ることはしない。しかし、長い宮廷舞踊をずっと一緒に踊る時間を共にできたことは、今から思えば非常に贅沢な時間で、言葉にならない影響をいろいろ受けたように思う。
1月22日にはバンバン・スルヨノ氏(芸名:バンバン・ブスール氏、60歳)が、翌1月23日には岩見神楽岡崎社中の元代表の三賀森康男氏が亡くなった。2人は、私は友人たちが2008年に企画したジャワ舞踊と岩見神楽の共同制作に参加して島根で『オロチ・ナーガ』を一緒に作り上げてくださった方々である。バンバン氏はマンクヌガラン王家の舞踊家として活躍するだけでなく、2000年に大学院が開設されて以降はサルドノ氏の助手として指導にあたり、呼吸や声についての独自のメソッドを持っていた。島根で公演した時には舞踊のワークショップもしてもらったのだが、バンバン氏の呼吸法や声にものすごく私の身体が感化されて、あくびが止まらなかったことを覚えている。三賀森氏は社中の中で最も年長ながら、最も柔軟な姿勢で受け入れてくれた。伝統を極めた人はこんなにも自在なのだと感じた。お互いに長い歴史を持つ岩見神楽とジャワ舞踊の間をつなぐすという経験をして、私は、遠く離れた場所でそれぞれ井戸を深く深く掘り下げていけば、いつかは同じ地下水脈に行き当たるのだな…と感じたことだった。