編み狂う(12)

斎藤真理子

「あと一段、あと一段」と思っているうちにどんどん時間が編み目に溶けてしまう。それが編み物の魔法。
 みたいなことをここに何度も書いてきたが、実は、「あと一段」というのは、正確じゃないと思う。
 なぜなら編み物(ここでは棒針編みを指す)は基本的に、二段がセットになって進むからだ。
 針を持ち、糸をひっかけ、右端から編み始めて左端まで至る。これで「表を一段編んだ」ことになる。
 そしたら次は編み物を裏側にひっくり返す。さっき編み終わった左端がこんどは右端になる。そこからまた編みはじめて左端まで至る。このプロセスが「裏を一段編んだ」ことになる。
 これが一緒になって、編み物ワールドの基礎地盤を作っている。
 行って帰って1セット。二段そろって1セット。編み物の表面にあらわれるいろんな模様は、表の段を編むときに操作を加え、裏の段を編むことでそれを定着させるというオペレーションで成立する。だから、完成形の編み物の段数は必ず偶数だ。奇数で終わることは、原則的にありえない。
 そして、どうやらこの「二段で1セット」というのが、時間を溶かす魔法のキモらしいのだ。
 特に私のような、模様編みばっかり編んでいる人間にとってはそうだ。表でやったことの結果を、裏で出す。繊細なレース模様も、大胆なアラン模様も同じ。この二段セットのリズムが、いっそうの馬力を蓄えて、編み棒を持った私を押すのだ。
「表・裏、表・裏」、「1・2、1・2」。このリズムに乗ってしまうと、あとは白熱するのみ。「早く裏を編んで、確認/納得/高揚したい」という強いモチベーションに駆り立てられて、二の倍数で時間が収奪される。階段を一段飛ばしでガンガン上っていくときみたいな乱暴な推進力である。
 このように駆り立てられた「表・裏、表・裏」のリズムは、例えば

 実行⇄定着
 実行⇄確認
 
 というプロセスの反復かもしれないし、また、

 呼⇄吸

 という身体の機能にも似ている。
 それはランニングのときの「スッスッ・ハッハッ」にもちょっと似ていて、だから編み物ってほんとに有酸素手芸だと思う。もう一度くり返すと、ここで言ってる編み物は、棒針編みだ。かぎ針や刺繍の規則性はちょっと種類が違っていて、このリズムは生まれない。
 そして、さらに恐ろしいのは、この「二段1セット現象」が、表と裏とで打ち消し合って、無の境地をかもし出すことだ。
 編み狂っていて加速度がついてくると、頭の中に「虚⇄実」とか「肯定⇄否定」とか「種まき⇄刈り取り」みたいな情緒が立ち込めてくる。実際には、編み物はどんどんできていくから、プラス、プラス、プラスの世界のはずなんですよ。でも、毎段裏返すからか、二段ごとに必ず原位置に戻るからか、手元にはプラスマイナスゼロの感触が残りつづける。
 輪をかけて白熱してくると、「虚無⇄充足」「妄想⇄現実」「一瞬⇄永遠」といったバリエーションがどんどん繁茂してきて、それは最終的にはどこかで「生⇄死」のプラマイゼロに通じているに決まっているので、編み物に油が乗ったときは最終的に無常感に接近するのである。
 だから、編んでいるときの実感としては、前へ前へと進んでいる感じはない。永遠に表と裏を反復して、足踏みしながら何かを目撃しているというか、ランニングマシンの上で無限に祈っている感じというか。
 そのとき、表・裏・表・裏のオペレーションに乗って、とてもネガティブな感情が湧いてくることもある。「アノヤロ、コノヤロ、バカヤロ」とか、「とりかえしがつかない、つかない、つかない」とか。
 たぶん、編んでいるときがいちばん身も蓋もないことを考えている。だけどそれも裏の段を編むときに去勢され、なし崩し/腰砕け/尻すぼみになってゆく。そういう効能も、糸と針にある。
「とりかえしがつきませんよ⇄つかなかったらそれが何だというのでしょう」。二の倍数で駆り立てられて頭の中には暴風が吹いてても、外から見れば凪に見えるだろう。表が裏を無効にし、裏が表を有効にする。反復だけが武器なのだ。たぶんとりかえしはつかないままで、一人が一生に編んだ編み目の全部がそろっていっせいにかがやく、そういう一瞬を想像する。きらきらと光を反射して、一匹の大蛇が全うろこを裏返す一瞬。