仙台ネイティブのつぶやき(97)猫ちゃんズ、逝く

西大立目祥子

猫は明け方に死ぬ。7月21日早朝、我が家の最後の猫が逝った。いよいよかなと感じて猫ベッドに座布団をくっつけるように並べて寝ていて、明け方、粗い呼吸音で目が覚めた。なでながら5分ほど。呼吸がまばらになっていき、間が空いて、ああこの呼吸が最後だ…と直感したところで息が静かになった。時計を確かめると4時13分。日の出の時刻4時30分に合わせるように、日が上り始めた薄明るい中で息を引き取ったのだった。

この猫、マユはなんと20歳。人間でいうと96歳くらいであるらしい。ひときわ小さなからだで、よく生きたと思う。人の生涯が約90年として、その4分の1強の時間を3キロほどのからだで生ききったのだから。仙台市のペット斎場から紙袋に入って帰ってきたお骨は、底の方にかさこそと重なっていて、頭蓋骨はにぎりこぶしよりずっと小さく、大腿骨はペン軸ほどの細さ。このわずかな骨であれだけ敏捷に動き、20年を持ちこたえたのかと思うと、生きものの生命力の強さとその死に怖れのような気持ちが湧いて目の奥がじんわり熱くなる。

20年のつきあいというのは、人にとっても長い。ことばを交わさなくたって、20年身近にいれば何となくなじんで気心が知れてくるし、どんな性格かだって、こちらが猫を見ているように猫は飼い主を観察していただろう。遠慮深かったマユは毎晩、私が布団に潜り込む時間になると甘えてきた。突然カゴに放り込まれ病院に連れて行かれる心配のない、絶対安心の時間帯を知っていたというべきか。いや、一日の終わりというのは、いい日であれ、さんざんな日であれ、気持ちが静まって平らかであるのを感じ取っていたに違いない。最近は階段をだるそうに上がってくるなとか、飼い主の経年変化だってわかっていたかもしれない。こちらが、このごろはびょんと高いところに飛び上がらなくなってきたな、と老いていく猫に我が身を重ねてながめていたように。

運動神経は抜群によくて、全身をしならせて階段を駆け上るようすは、室内ピューマのようだった。こうやって原稿を書いていると、猫ベッドから起き上がって、ととと、と近づいてきて、忙しいんですかー?といいたそうにこちらを見ることがよくあった。死んで10日。部屋にはまだ気配が残っていて、ぱっと振り返るが、誰もいない。実は昨年の11月に、マユの1歳年上のコモという猫も20歳で死んだ。20年のつきあった猫とのお別れはつらかったが、ごはんやトイレの掃除は続き、生活はそう変わらなかった。それがいまでは、猫ベッドはからっぽ。猫トイレに小さな足跡はない。
ああ、我が家の猫ちゃんズは、みんなあちら側にいってしまったのだ。

振り返れば、1997年の秋に庭にあらわれた野良のメス猫に、情にほだされごはんをやったのが猫ライフのはじまりだった。何にせよ名前をつけると関係が生まれる。ビーと名づけたその猫はどこからきたのか兄弟はいたのか、まったくわからない。春生まれで半年くらいは一匹で生きてきたのだろう、人を信用しきらない野性味があった。でも生きもの同士の情緒の交換とでもいったらいいのか、ことばを介さないやりとりのうちに少しずつ関係が縮まっていった。動物と仲良くなるならなら嫌がられることはしない、というのが鉄則。上から見下ろしながら近づいたらパッと逃げられるとか、いきなり頭をさわると猫パンチを食らうとか…NG行動を学んでいくうちに、ビーはガラス戸のすきまから入り込んできてごはんを食べ、しばらくの時間を部屋の隅で過ごしていくようになった。

春が近づくとビーのお腹がふくらんできて、これはヤバいことになるかも…と思っていたら、初産はうまくいかなかったのか何事もなかったように日は過ぎた。やがて翌春、ビーのお腹は特大級にふくらんだ。どこか安心できる場所でお産をしたものか、ペッシャンコのお腹になって数週間がたったころ、事件は起きた。ある日、カーテンの陰から、サバトラ、茶トラ、黒、麦模様の子猫ちゃんがつぎつぎと姿を現したときの衝撃!デビュー!今日からお世話になりますね〜とでもいうような平然とした態度で4匹の子どもたちを従えてきたのである。

ビーはほぼ毎年、春になると贈り物をするように子猫を連れてきた。かわいいけれど、呑気にはしていられない。新聞に子猫いりませんかという広告を出したり、里親探しのイベントに参加したり、奔走の日々。春から夏にかけては毎年てんてこまいだった。
そのころは出入り自由にしていたからウィルスに感染し数ヵ月であっけなく死んでしまうのもいたし、大腿骨を骨折して3本足で帰ってくるのやら、突然姿を消しおろおろ探しまわっていると1週間後にふらりと戻ってくるのもいた。事故にあったのか家出なのか、いなくなりそれっきりだった猫も何匹かいる。3匹、4匹の兄弟だと、たいてい1匹は幼くして死ぬ。子猫の生命力に圧倒されながら、私はこれが100年前なら、人もこうやって指の間からこぼれ落ちるように、1歳、2歳で兄弟が死んでいったのだろうなと想像していた。家の中に、そこいらに、生と死が同時にあったころのこと。

寺田寅彦の『子猫』という随筆には、ひょんなことから家にやってきた2匹の猫が引き起こす騒動や翻弄される家族のようす、動物に目を開かれていく作者の内面が描かれている。最初に読んだのは猫との接点がなかったときだったから格別強い印象は持たなかったのだけれど、いま読むと、書き出しの「これまでかつて猫というもののいた事のない私の家庭に、去年の夏はじめ偶然の機会から急に二匹の猫がはいって来て、それが私の家族の日常生活の上にかなりに鮮明な存在の影を映し始めた。…私自身の内部生活にもなんらかのかすかな光のようなものを投げ込んだように思われた。」というところから、私自身の猫体験をなぞるように読める。
メス猫の三毛、どこか無骨なオス猫の玉、そのうちに子どもが拾ってきたもう一匹のちび、三毛のお産騒ぎと生まれた4匹の子猫のようすや、もらわれていった家やその境遇の違いまで。小さな出来事にざわざわと揺れ動く気持ちや不安感の描写は、動物を飼ったことのある人なら誰もが体験するものだろう。寺田は、芋屋にもらわれていったおさるという猫をのぞきに行き、浮き出た背骨をなで哀れな境遇を思いやって帰ってくる。

私はそこまではしたことはないけれど、先に書いたコモの兄弟を2匹まとめてもらってくれた高校生の女の子のことを思い浮かべることがある。20年たっているのだから、あの子は30代後半だ。ビーの子どもでは唯一だった白猫とハチワレの茶トラはまだ生きているだろうか。送り届けたのは仙台の高級住宅街だったから、うちよりはおいしいごはんを食べさせてもらったとは思うのだけれど。

ビー一族の物語。その最後の一匹がマユだったのだ。ビーとの最初の出会いから27年。それが10数匹2世代の物語であると思うと、長寿化している猫とのつきあいは決して軽いものではない。私の人生や家族の生活の内側に存在して痕跡を残していった一匹一匹の猫たちは、それぞれが人格ならぬ「猫格」を持ち、あっぱれな生き方をしていった。
残酷なほどあざやかな子離れをしたビー、家出をして野良として生き亡骸になって我が家に帰ってきたムギ、引っ越しを拒み野良生活9年ののち最後の2年を家で暮らしたチビ丸…いつか一匹一匹のことをちゃんと書きたい思う。

猫たちは私の中に、引き出しをつくってくれた。この引き出しは奥が深くて、どんなに引いてもいまだ引ききれない。