訳者あとがき
この本の第一部は、タイの月刊文芸雑誌「読書世界」に連載された、ウィラサク・スントンシー『カラワン楽団回想録』の邦訳である。1・2章は、「読者世界」一九八一年七月号に掲載された『回想のカラワン』、3章は、同年十月号の『ゲリラ地区でのカラワン』、4章は同年十二月号の『最終編・統一戦線拠点A三〇と西双版納《シップソンパンナー》』である。
この1章から4章までは、すでに一九八二年二月号〜四月号の「水牛通信」に翻訳して連載したことがある。ただしこの本の1・2章はこの時のものとは異なり、著者ウィラサクが、タイでも単行本として出版される計画ができたために、まったく新たに書きなおしたもので、初めのものより非常にくわしくなっている。が、日本の読者に分りやすくするため、著者の了解をえて、不要な部分は多少カットし、説明不足の部分には言葉を補った。
第二部、5章の「モンコン・ウトックのはなし」は、作曲家高橋悠治の主宰する水牛楽団が、八二年二月のコンサートにゲストとして招いたモンコン・ウトックからわたしが直接ききだした話である。
巻頭の序詩「カラワン」は、八二年五月、カラワン楽団の再出発にあたって、スラチャイが作った新しい歌。7章「カラワン歌集」には、初期の歌のなかでとくに有名で、若者たちにうたい継がれたものを訳出して載せた。1章に挿入した歌詞は、そのうちの一部分である。
6章の水牛楽団のメンバー八巻美恵によるカラワンとの出会いの記録は、すべて八二年の「水牛通信カラワン楽団の冒険 ラオスから中国へ」に掲載されたものである。
タイは戦後長いこと、軍事独裁制のもとで呻吟してきた。自由と人権を要求する声は、一九七三年十月十四日、いっきょに噴出した。この日、バンコクの民主主義記念塔前のラートダムヌン通りは、五〇万とも一〇〇万ともいわれる学生と市民の大群衆でうめつくされた。
この学生革命の日から、つかの間の民主化が、一九七六年十月六日、軍部によるクーデターの血の海に沈められるまでの三年間、タイは百花斉放、百花撩乱の時期といわれた。カラワン楽団の第一期の活動は、この三年間のものだ。彼らの歌は、この時期にみごとに開いた大輪の花だともいえる。
この時期は、「芸術のための芸術」論(芸術至上主義)と「生きるための芸術」論(社会主義リアリズム論を基盤とする)が、熱戦を展開したときでもあり、新しい文化を創造しようとする若者たちが、後者を標榜して多様な創作活動をおこなった。この「生きるための芸術」運動を、画一的に社会主義リアリズムの運動ととらえてしまうには、あまりにも多様で、内発的、主体的なものを含んでいた。カラワン楽団は、自分たちの歌を「生きるための歌」と呼んでいる。そして自分たちを「生きるための歌の楽団」と。それは現在も変わらない。
一九七三年、詩人スラチャイを中心に結成されたカラワン楽団が、最初にうたったのは、自分たちの出身地イサーン(東北)の乾ききった大地と幸薄き農民のすがただった。国民をタイの恥部にはふれさせまいとしてきた為政者にとって、「人と水牛」の歌は痛烈なパンチだったに違いない。禁止にふみきらぎるをえなかったほど。
一九七六年十月六日、軍事クーデターの直後、彼らはジャングルの共産党支配地区にむかう。テロルと血の弾圧が吹き荒れたこのとき、武器をとって共産党と合流する決断をしたのは、彼らばかりではなかった。二〇〇〇人から三〇〇〇人におよぶ都市の活動家や学生、インテリが相前後して「森」に入った。
けれども彼らは、タイ共産党の非自立的体質(中国共産党タイ支部ともいうべきあり方)、非民主的、独裁的体質と対立したうえ、おりからのベトナムのカンボジア侵攻、中国の対ベトナム戦争といった社会主義の混迷のなかで続々と都市にもどってきた。カラワン楽団では、一九八〇年にウィラサク、八一年にモンコンとポンテープ、そして最後に八二年四月、北部の解放区全滅の後、スラチャイとトングラーンが戻ってきた。一九七八年のクリアンサク政権が「帰順者の罪を問わない」という「大赦」宣言を出したことも、この流れに拍車をかけたに違いない。血の弾圧よりはよほど賢い政策だった。
カラワン楽団が生きてきたこの十年間の軌跡は、生まれかわろうとしていたタイの生んだもっとも誠実な若者たちのそれを代表している。彼らの経験は、個人的なものというより、民族的な経験といえる。そしてそれは、タイの思想変革の流れでもある。
一九八二年六月のコンサートをかわきりに、スラチャイ、ウィラサク、モンコン、トングラーンの四人は第二期カラワンを結成して、ふたたび精力的にタイ全国各地の大学や映画館を公演して回っている。彼らの行くところには、学生たちの口笛と拍手喝采が待っている。
一九八三年一月、わたしはカラワン楽団の東北地方への巡業に同行して、その公演を聴く機会にめぐまれた。リーダー、スラチャイ・ジャンティマトンは、カラワンのこころ、カラワンの運動そのものを全身で体現したような存在だ。舞台の上の彼は全身で表現している。彼なくしてはカラワンはありえないと感じさせるほど強烈な自己主張の持主である一方、たいへんナイーブで孤独なこころをもっている。
彼は最後まで「森」に残っていたために、この本では彼の存在があまり浮彫りにされていない。ここで彼について少し紹介することで、その点が補えれば幸いである。
スラチャイ・ジャンティマトンは、一九四八年四月、東北スリン県ラッタナブリ郡で生まれた。七人兄弟の真中で、父親が農村の小学校の教師だったところまではモンコンと同じだが、モンコンがラオスの血筋なのに対し、彼はクメールの血をひいている。
小さいころから絵を描くのが好きだった。あるとき壁に描いた落書きがたまたま人の足にそっくりだった。たぶんこのとき彼は、自分の絵の才能に目覚めたか、自信をもったのだろう。それ以来今日までずっと絵を描くのが好きだ、と彼は書いている。みんなで喫茶店にすわっていた間も、彼はボールペンを絶えず動かしつづけ、そこにあった紙袋の上に、図案化した顔のようなものをいっぱい描いてしまった。最近出版された彼の初期の短篇集には、このような彼のペン画が何枚も載っている。
幼いころ彼のこころに音楽への憧憬を呼びさましたのは、彼の祖母の葬式に雇われてきた盲目の辻音楽師だった。胡弓を弾きながら、足でチン(小さいシンバル)を叩き、クメールの歌をうたった。その歌がすばらしかったことが、彼に音楽を聴くだけでなく、奏でることに強いあこがれを持たせたのかもしれない。
中学に入ると彼は、学校の小さなブラスバンドに入り、クラリネットを吹くようになる。彼のいじった最初の楽器だ。彼らは葬式や得度式に雇われて演奏して回った。そのころのことを書いたと思われるものに、短篇「葬送歌《プレーン・ソップ》」がある。
中学を卒業した翌年の一九六五年、美術学校に入りたくてバンコクにでてくる。それ以来、彼の「放浪」生活が始まる。一定の場所にいられるだけのお金がなかったからだ。一巻の蚊取線香を買って鉄柵につるし、王宮前広場で寝たこともあった、という。彼の父は彼にわずかな仕送りをするのがやっとだった。都市と農村の格差のはなはだしいタイのような国では、貧しい田舎の人間が高等教育を受けようとすることは、なみなみならぬ努力と熱意を必要とする。彼自身が序文でも書いているように。
美術学校の試験は、四回受けてやっと受かった。一九六八年のことだ。そんなにまでして入りたかった美術学校も、彼は二年でやめてしまった。一カ月に一回か二回しか学校に行けなかったし、絵の具が買えなかった。彼が青一色で描いた絵は、試験を通らなかった。
これ以前から彼は、短篇小説を書き始めていた。一九六六年には最初の作品が雑誌に掲載され、彼は五〇バーツをえた。十八歳のときのことである。彼はつぎつぎに短篇小説や詩を書いてなにがしかの収入を得るようになったし、新聞社や雑誌の編集室で編集助手のような仕事もしていた。バンコクに出てきてからのスラチャイは、こうしてもの書きの世界に身をおくことになる。間もなく彼は当時の若い作家や芸術家の集まりである「三日月グループ」に加わった。
「三日月グループ」というのは、作家スチャート・サワッシー、ウィタヤゴン・チェンクーンを指導的メンバーとする、社会的関心や政治意識の強い青年たちのグループで、短篇小説、詩、戯曲などを書いて雑誌や単行本にして発表していた。ウィラサクが1章で書いている『カラワン』というタイトルの本も、これらの作品のなかのひとつだった。「黄色い鳥」の作詞者、詩人ウィナイ・ウッグリットや「山の人」の作詞者、ウィサー・カンタップもこのグループの仲間たちである。
「三日月グループ」は新劇の分野でも画期的な活動をした。「三日月劇団」を結成して、自分たちの書いた戯曲、たとえばウィタヤゴン・チエンクーンの「ナーイ・アパイマニー」やスチャート・サワッシーの「七階」を上演した他、ゴーリキーやブレヒトをはじめてタイで上演するという試みもやっている。
一九七二年、うもれていたジット・プミサクの芸術論「生きるための芸術・人民のための芸術」を発見して、ふたたび世に出したのも、スチャート・サワッシーと彼の仲間たちである。この一冊の本は、彼らと彼らの後輩のルン・マイ(新しい世代)たちのその後を方向づける転換点となった。
ちょうど同じころ、スチャート・サワッシーは、彼が編集長をしていた「社会科学評論」で黄禍特集をくんで、学生たちの反日運動を燃えあがらせる指導的役割もはたしていた。この反日運動が、民主化闘争へののろしとなったのだ。
スラチャイは、このころのことをこう語ってくれた、「ぼくらはみな、書くことからはじまって、実践のなかで出会った」と。
スラチャイがギターを覚えたのも、「三日月グループ」の友人からだった。ジョーン・バエズの曲だった。彼はギターに夢中になった。借りてきたギターを朝に晩に弾いていた。孤独な彼は最高の友をえたのだった。寝るときには蚊帳のなかに置いていっしょに寝たほどいとおしんだ。
そんな彼が一度だけギターを手放したことがあった。お金がなくなって質に入れてしまったのだ。原稿料が入ってくると、それが二〇〇バーツであっても、五〇〇〇バーツであっても、一晩で使いはたしてしまう。友達みんなで飲み食いしてしまうのだ。そんなわけで彼はいつも無一文だった。けれどもギターを質に入れてしまうと、彼のこころはいたく傷ついた。やっとのことで五〇バーツを手に入れてとり戻してくると、二度とふたたび質に入れることができないように、釘でドクロの絵を刻みつけた。
そして彼はもう、ジョーン・バエズでもボブ・ディランでもない自分自身の歌を作りはじめていた。そのとき出会ったのがウィラサクだった。ウィラサクもまた「三日月グループ」の一人だ。このあと何が起こり、何をしたかは、ウィラサクが書き、モンコンが語ってくれた。
カラワン楽団は、詩人スラチャイがギターを握ったことからはじまり、彼がよき友を得ることによって誕生した。「三日月グループ」に代表される新しい芸術運動のなかから。
はじめてカラワンのテープを聴いてからもう六、七年になるだろうか。それまでに聴いたことのあるタイのどの歌とも違った新鮮な印象を受けたことを覚えている。初期の歌をおさめた彼らの最初のテープだった。聴くほどに、わたしはこの一本のテープにおさめられた歌に愛着を感じるようになっていった。
彼らの生の演奏は、衝撃といえるほどの迫力と説得力をもっている。何故か。それは彼らが、自分たちの言葉で、自分たちの歌をうたっているからだと、わたしは思う。彼らは、他人の闘いを追体験してうたっているのではない。自分たちを生んだ社会の現実をうたっている。そしてうたうこと、そのことが、「闘い」といわざるをえないような状況のなかで生きてきた。肉体をはって、生命を賭けてうたってきたのだ。
一九七三年十月十四日は、タイの歴史が始まって以来はじめて民衆が勝利した日だ。三人の独裁者が追放されただけで、体制が変わったわけではないとはいっても、意識の大転換をもたらした意味では「革命」と呼べるほどの大事件だった。カラワンにかぎらず、この闘いに参加した世代には共通の光が宿っているようだ。自分たちの手で歴史を動かしたのだ、という。これがモンコンの瞳を輝かせ、スラチャイの歌に自信と躍動感をみなぎらせる。彼らは共産党の教条主義と一線を画して、ついにまじわることがなかった。彼らにその強さを与えたのも、この自信ではなかったか。
「森」での五年間の体験は、彼らの人間的厚みを増したにちがいない。十年にわたる闘いのなかで、失った同胞へのこころの痛みも。今彼らの古いテープを聴いてみて、その違いを感じている。スラチャイは書いている、「わたしは何も見えないように、しっかり眼を閉じてうたう。わたしのなかの失われていったものを何かでうめようとするように」。
今年は水牛楽団が、カラワン楽団を日本に招いて共演したいとはりきっている。彼らの歌声を聴くことができれば、くどくどと説明したことが一切無駄になるだろう。わたしは、カラワンの歌がジョーン・バエズやボブ・ディランの歌より下手だとか劣っているとは思わない。けれども、あらゆることに飽食している現代の日本人の何人が、「第三世界の貧民のキャラバン」の歌声に耳をとめるのだろうか。
一九八三年四月、荘司和子
|