接続点
ユーニスにはじめて会ったのは一九七三年だった。ウィスコンシン州のラシーヌという人口十万の町にある「ジョンソン財団」の国際会議センターの企画担当者として新しく入ってきたばかりだ、ということだった。彼女はその財団が雇用した最初の黒人だった。それまでの彼女はソシャルワーカーだった。その頃さかんに流行っていた大きなアフロにしていたユーニスのうつくしさに、わたしは息をのんだのを覚えている。当時彼女は三十一歳だった。その後の七年聞に彼女は二度勤め先から退職した。「ジョンソン財団」のあとに勤めた「モット財団」は財団としての格はずっと高いといわれ、ユーニスの言業を債りれば「当時は黒人の女として、これ以上は昇れない」というところにいたが、彼女は辞めた。ある夏の熱い昼下り、黒人のゲットーの家々のポーチの階段でビールを呑んでいる男たちの姿を見たとき、辞めるときめた。それ以前に離婚もした。二人の子どもたちだけとの生活が始まっていた。一九八一年現在、ユーニスは三十九歳。わたしは彼女の強さや勇気のあるところも好きだが、しなやかなところはもっと好きだ。「成長するってのはたいへんなことね」と彼女はいうが、ひとつところに留まっていられない彼女は痛みを伴うことがらも、のびやかにこころを広げる契機にしてしまう。
1 ミシシッピーの村で生まれた
――生まれた頃のことから話すのはどう?
ユーニス 生まれたのはミシシッピー州のマウント・オリーブ。あたしたちは病院で生まれてね、病院でのお産は当時はとても珍しかったのよ。マウント・オリーブは小さな小さな村みたいな所よ。そこで八年生になるまで学校へ行った。父が大学へ行くんで、しばらくジャクソン市にいたこともあったけど。
――おとうさんは高校のあと、すぐ大学へ入ったの?
母と結婚して、それから軍隊に入って。除隊になってから二年制の大学へ行って、それから普通の大学へ行って。そのあと大学院へ。ずっといなかの方に住んで農業をやっていたわけだけど、父の大学通いは、あたしたちが大きくなる過程の一部でもあったわけ。父は学校に行き続けたから。
――あなたは五人きょうだいの次女よね、おとうさんは復員兵手当も貰って学費にあて、家族を養ったの?
百姓をしたの。あたしたちは一時期に一種類の作物を栽培するやりかたをしてた。キュウリばかり作る。キュウリの季節が終わったら、スイカを作る。市場へ運んでいって売ったり、漬物会社に売ったり。四月と五月がキュウリだった。スイカのあとはジャガイモ、それから、トウモロコシ、そして棉。十二月、一月、二月を除いて、いつも何か売る物があった。
――貧しかったわけではないのね。
貧しかったかもしれないけど、あたしたちはそう思っていなかった。父は冬は学校の教師もしたし、スクールバスの運転手もやった。母は学校の食堂で料理をして働いていたの。収入はいつもあった。きっとよそより楽だったんだと思う。村は黒人ばかりで、八歳になるまで、白人を見たことはなかった。ハイウェイを車で往く白人を見かけた、というくらいで。まわりは全部黒人だった。土地を所有していたのも黒人だし、店などの経営者も黒人だった。学校も黒人だけだった。大きなトラックが黒人を拾いにやってきたっけ。棉摘み労働者として使うために。その連中は現金を手にして帰ってきたものだった。あたしたちはといえば、他人に使われるってことがどんなことか知らなかった。いつも自分たちのために働いていたのだから。
――その村はどのような経緯でそのような性格の村になったのかしら。
奴隷解放のときに、黒人は土地を貰ったから、やはりその頃からのものではないかと思うけど、はっきりは知らないのよ。それにね、このことはあまり知られていないことだけれど、奴隷解放宣言以前にも自由民の黒人はいた。あたしの母かたの祖父の姉は自由民と結婚して、彼女も自由民になった。自由民は土地を持つことができた。あたしたちが住んでいたあたりの土地はほとんどがその家族のものだった。小作人たちを使っていてね。そういうふうに、南部では自由民の黒人は白人のそれと同じ方式でやっていたのよ。以前は奴隷だって持っていたかもしれないと思う。その女性が死んで、あたしの母もその土地の一部を遺産として相続した。その辺りに油田が発見されて、母の土地を通る石油パイプの権益から毎年所得がある。十エーカーぐらいの土地じゃないかしら。
――黒人の自由民がいた、ということには余り注意が払われてないようだけど、彼らは重要な役目を担っていたようね。
自由民であることを証明する身分証明書を身につけていてね、移動も自由だったし、職を持つこともできた。たとえば奴隷の逃亡で活躍したサジョーナー・トルースは自由の身になり、土地も貰ったでしょう? 彼らは白人に雇われることはあっても奴隷ではなかった。黒人はそのことについて余り話さないのね。
――女主人のための労働を全部終えてから、深夜、洗濯やアイロンかけのアルバイトのようなことをして、自分自身を買い取り、息子や娘も買い取った女の奴隷のことを読んだことがあるけれど。奴隷解放がやってくるまで待っていなかった奴隷も多かったのね。
そう。それに奴隷解放は、この国が黒人に与えたことみたいに話されることが多すぎる。事実は、それ以外に道はなかった、ということなのに。さもなければ、国全体が滅びてしまっただろうから。政治的な手段としてはそれしかなかった、虐げられた人びとを救うという目的でやったわけじゃない。
――「解放」後の年月も至難の道だった。
このアメリカという国はね、民族の意志とか、民族の独自性というような概念は棄ててしまったのね。この国は人種の「るつぼ」とか呼ばれて、あたしたちは一人残らずこの鐘状の鍋みたいな物にすんなり入れるはずだってことになっている。鍋の外にいるのは監獄にいる人たちだけさ、とかね。集団的個性や集団の独自性という視点を棄ててしまった。だからいまはなんとかそういう視点を取り戻さなければ。黒人たちは彼らについて書かれた研究書なんか読むのはやめてしまうのがいい。書物がこうだ、ああだというのに合わせようとするのは早くやめるのがいい。鐘形の鍋の中へ入ろうとしたって、ほんとは誰もどんな曲線をもった鍋なのかわからないのだから。あたしたちはあたしたちの集団的な独自性を信じるところから始めるべきなの。鍋の中を歩け、と教えることによって、体制は子どもたちを損ない、傷つけてしまった。
――どこかにモデルはある、という前提ででしょう?
あれか、これかしかないみたいに。西欧的になれと。有色人種の人びとが力を合わせることが大切だと思うのよ。日本の女性が黒人の女たちについて知るのは、役にたつかもしれないわね。彼女たちにも同様の心理的圧力があるのかもしれないもの。アメリカ先住民たちはその問題と取り組んできた。対峙するためには西欧文化の性格を理解しなければならない、と同時に、黒人社会がどのようにあたしたちを形成してきたか、そのことも把握しなければならない。本当の自分を理解しなければならない。そしてあたし自身は個人として黒人文化や共同体とどのような関係を結ぼうとしているのか。自分自身を知るにしても、理解の水準もさまざまよね。混乱することもあるし、堂々めぐりすることもある。六〇年代にはあからさまな抑圧がある場所でではなく、むしろ微妙な抑圧のある場所、つまり北のゲットーで暴動が起こった。南部の黒人たちよりよい暮らしをしていたと思われていた人びとの暴動。彼らは北も南も同じだと気がついたわけ。しかも南部の黒人の方が職を得るにしても、資格がある場合が多かったし、彼らは心理的にも、より頑強で、つらいことにも耐える力が強かった。それは彼らには、いってみればより多くの「ルーツ」があったからなのね。そこで北部の黒人が南部の大学へ進むことがさかんになってね。学校へ、というより、彼らは南部へ行って「私と黒人共同体」という関係を回復してみたかったの。現在では北と南の人びとが交わり、それが豊かな土壌を生み出しつつあると思う。この北アメリカという国にいるわれわれとは一体何者なのか、それを知ろうとする努力の一端なのね。自分が何者であるかを知るためにアフリカへ旅する人も多い。
――それはいつ頃からの傾向だと思う? たとえばポール・ロブスンもアフリカへ派をして、そのことが重大な意味を持ったでしょう。
意識的な傾向として? あたしはアフリカに対しては、黒人はいつも非常な親しみを感じていたと思う。直接的なね。あたしはまだ一度しかアフリカへ行っていない。西アフリカ。……ゴレ島という所へ行ってね。そこは船がくるのを待つ場所で。あたしは腰を下ろしていた……あたしの一行はあたしを除いて全員白人だった。彼らにはあたしに何が起こっているのか全然理解できなかった。あたしにとっては、そこで一切の意味が明確になった。カサマンズ川の上流にいてね。ずっと車で走っていた。あたしはふと、大きな薪の束を運んでいる女の姿を見たの。針金のように細いからだの女。食べる物も食べていないような感じでね。あたしたちはちょうどガソリンスタンドにジープを停めていたので、訊いてみたの。こういう女たちは薪束をかついで一日に八キロから九キロは歩く、という話だった。 やがてフェリーに乗る場所まで行ったのだけど、そこではそういう女たちが休息をとっていてね。あたしはその中の一人に、半ば冗談で、あたしも薪束を頭にのせてみたい、といったの。やってごらんなさい、というから、地面に置いてある束を持ち上げようとしたのだけれど、びくともしない。頭にのせるどころではないわけ。そこでそこにいた白人の男性に持ち上げるだけやってもらって頭にのせてみよう、と思った。体重九十キロ、身長百九十センチの巨漢よ。彼はやってみたけど、やはり持ち上げることができなかった。あたしはそこら中の人たちに、「この薪束を持ち上げてください」と頼んでまわった。誰にもできなかった。あたしは、きっとこの女は特別に重い束を担いでいるのだ、きっと彼女は例外なのだと考えてしまうことにしたの、八キロの道をこれを頭にのせて歩くなんて、きっと例外なのだと考えてしまうことにしたの。
でもゴレ島に戻ったとき、あたしは突然すべてを理解した。そう、そうだったのだ、だからこそ、あたしたちは生きのびたのだ、と。彼らは特別にすぐれているのだ。あの無惨な大西洋の連行の航海を生きのび、二百年の奴隷の時代を生きのび、それからまたその後の百年を生きのびたのだから。それなら、あたしもきっとすぐれているのだ。個人としても、と思った。そのことがあってから、あたしはあたしの中にあるものと、海の旅と奴隷の時代と解放後の歴史から残されたもののすべてとを結びつけて考えようと決心したの。(泣き出してしまう)あの瞬間がどれほど深い意味をもつものだったか、あたしは忘れていたのね。だって、ずっと長いこと、あの瞬間を探し求めていたのだもの。こうして話していると、あたし……。あの瞬間こそ誰もが探し求めているものなのよ。ポーランド人が寄り集まって踊るのも、そうなのよ。誰にも、そういうことがあるはずなの。
あたしは砂地ばかりで、他には何もない土地を旅していた……。牛の死体が転がっている。ラガドンという村へ向かっていた。あたりには死体ばかり。あたしは腹が立ってね、あの牛にもできなかったことじゃないか、あたしにできるわけがあるだろうかって。不毛の地。砂漠を横断しはじめたあたしは、ああもうこれでわが子に会うこともないのだと思ってね。頭が変になっちゃったから、もうそれ以上は考えないでおくことにしてね。そのうちにラガドンに着いた。そこには何もなかった。何も。水は? 池みたいなものが見えるけれど、それだってあっという間に干上がってしまいそう。人びとはどのようにして命をつないでいるのか? 何もない。山羊がわずかばかりいた。砂漠へ連れ出すの。そこで何を食べさせるのか、見当もつかない。行けども、行けども何もない。「では葉っぱでも煮てたべましょう」といおうにも、葉っぱもない。砂、砂、砂ばかりで。
一人の女性に、「学校を見せてください」とあたしはいった。彼女はあたしを一本の木の生えている所へ連れて行った。蔭を作っている一本の木よ。それが学校だった、暴風や雨を除けるのは? 雨が降ることはけっしてないから建物はいらないの。人びとは生き生きとして、健康で、希望を持って暮らしていた。あたしはあたしたちがどれほど資源に対してだらしなくなっているかについて考えてしまった。
そこでは五歳になるまでに、乳幼児の四十四パーセントが死亡するということだった。ところで、この死亡率はワシントンの黒人のそれと同じなの。一九七四年のそれと。
――えっ?
そう。
――ほんとに?
そう。一九七四年……ワシントンでは、五歳になるまでに男の乳幼児の四十四パーセントが死んだの。デトロイトのゲットーのね、性病の罹患率と、アフリカの村々のそれとは同じなのよ。アメリカにはあり余るほどの医療源があるのに。ゲットーにはそれも届かない。それにしても、その村の人びとを見ても、やはり、この人びとには生きのびる力があるのだと感じた。でも、国の指導者たちに会いに行ったらね、彼らは三十代の人びとで、西欧流のものをさかんに取り入れていた。
――黒人の文化に、集団の精髄に、薪の束を頭にのせて歩くアフリカの女に自分を結びつけることが、どれほど深い意味を持つかについて語り、それを長いこと探し求めていたのだといって泣いてしまうあなただけれど、一方ではあなたはうらみつらみを抱いているようには見えない。いつもこころが安定しているし、鷹揚だし。アフリカへ行く前のあなただって、ずっとそうだった。でもそういうあなたと、アフリカであの瞬間に出会ったことを語って泣いてしまうあなたとは、やはり同一人物だと思う。
きっとね、アフリカへ行くまでのあたしは、その力を無意識に使っていたのね。何か怖ろしいことを見てしまったりした時には。それはきっとアドレナリンみたいなものね。一定の状況の下で、作用しはじめる力というものがあるのだから。神があたしたちをそういう者として創ったのだと、あたしは思う。あたしはだから大学へも行けた。息子のコリーを見ていると、子どもの頃のあたしを思い出すの。あのアフリカの女の中に、あたしはあたしたちの民族の力を、接続点《コネクション》を見たのね。それまでは、それを運だとか偶然だとか考えていたわけだけれど、その女の中に力を見とめると、自分の中にあるのもそのような力だと、初めてそれを信用することができるようになったのね。民族の中に生きのびた力。それは死滅したりはしなかった。劣等であると、教えられてきた民族の力。教育や法律や差別は、この人種は劣等であると、間接的に教え込んできた。あの瞬間は人びとがあたしに信じ込ませようとしてきたことすべてを吹き飛ばしてしまった!
あたしの受けた教育はいつもあたしたちを減ぼそうとする類のものだった。目立たない方法だけど、確実な方法で。あたしたちは何をやったにしても、やはりどこかまずい[やはりどこかまずいに傍点]と思わせるようになっていた。だからこそ、接続点を発見することが大切なの。それは簡単なことじゃない。誰もがあなたを洗脳することばかり考えているのだから。
2 ク・クラックス団に追われて
――時間的に少し逆戻りして、あなたの一家がミシシッピーを去らなければならなかった経緯を話してくれる?
人種の無差別待遇が実施されるはず[はずに傍点]になったあと、五〇年代のことだったけれど、政府の方針の内実は黒人は分離したまま平等に扱うということにすぎなかった。その頃あたしの父は黒人が選挙投票を行なうことを促す運動に加わっていた。投票権を得るためには投票税を払うことになっていたけど、その払い込み期限がきても、誰も知らない。そこで父はその時期をつきとめ、土地を持っている黒人のすべてに手紙を出した。新しくできた学校には謄写版印刷機があったので、父はタイプで手紙を書いてね。三ドルぐらいの投票税を払いなさい、とすすめた。子どもに手紙を持たせてやったのだけど、それを受け取った親の一人は文盲だった。彼はその手紙を白人に見せた。白人たちが騒ぎだし、父は危険人物だとされ、投票税を払おうとしていた三人の人物もすっかり怯えてしまった。父は市議会へ召喚されて、税金で購入した謄写版印刷機を使って市民権運動をやろうとはどういうことか説明しろ、といわれた。市議会は全員白人で、その多くはク・クラックス団(KKK)の団員だったのよ。
その後KKKが父をつけ狙い、家族全体の生命が危険になった。あたしたち一家は住んでいた家に家具も何もかもそのまま残して去った。車に乗りこんで、そのまま発った。ミルウォーキーへ向かってね。クエーカー教徒の組織である「フレンド会」の人たちがミルウォーキーに打電しておいてくれて。「フレンド会」はいわば現代の「地下鉄道」(南北戦争の前に奴隷の北部やカナダヘの逃走を助けた組織)よ。あたしたちの親戚に電報を打ってくれたり、ミルウォーキーで住むことになった家に家具を持ってきてくれたのも彼らだった。あたしたちは無一物になっていたから。ただひたすら車を走らせて逃げて。
家族は七人。両親と子どもが五人。父は学校の校長をしていたけれど、ミルウォーキーでは土方をやらなければならなかった。修士号まであるのに、美術の単位を取ってなかったとかで、ウィスコンシン大学へ行って、ひどい張子人形《パピエマシェ》なんか作っていたのを憶えているの。なんとも見苦しいこの人形を作ったら、教員免状をくれてね。
父はとても苦しんだ。まるで人が変わったようになってしまって。学校の教師になったけど、差別もひどかった。父は疲れてしまったみたいで。それから二十年、もう何もしなかった。ただ平教員をやっていただけ。運動にも加わらず、校長になろうともしなければ、教育行政の方へ移ろうともしなかった。そしてただ引退して。努力する意志なんか失ってしまったようで。ずっとたたかってきたのに、力がつきたみたいになってしまった。ひどくお酒を呑むようになってね。やっと去年、お酒をやめた。
あたしは父がほんとはどういう人だったか、全然知らなかったと思う。ただこころの中で拒絶してしまって、たいして寄りつきもせず、きちんと話し合うこともしなかった。女のあとを追いかけていたりしたこともあった、感じでわかるのよ、ふと匂いがしたりして。あたしは自分を父から切り離してしまったのね。ミシシッピーでは父は頑張って、いろいろな貢献をして、多くの人びとの人生を変えたのに。追われるように出てきて、ああ、もうつまらん、こんなことしたって、何の役にも立たない、と諦めてしまった。彼はすべてを失って。ミシシッピーで生まれ、そこで育ったんだもの。黒人の子どもたちを教育する、というのがいつも彼の夢だったのに。壊れてしまった、父は。
父はあたしたちに教育費を全然くれなかった。あたしたちが学校へ行くのには反対なんだな、とあたしは思っていた。あたしが新学期からの学費を作るために夏中働いてためたお金を借りたりするの。だから九月になると、あたしは夏中一所懸命働いたのにもかかわらず、よそから借金しなければならなかった。でも父の頼みを断ることはできなかった。そんなことできると思う? いま思い起こしてみると、父はそのようにして、あたしたちに「ただひどい目に会うだけだぞ。なんでそんなに頑張らなくちゃならないんだ?」といおうとしていたような気がするの。あたしたちが決定的に傷つけられるところを見るに忍びない、と考えていたのではないかと思うの。
こんなふうに考えて、言葉に表してみたのは初めてだわ。あたしはずっととても孤独な気持がしていた。だれも応援してくれないと。学校へ通うバス賃がないことだってあった。でも伯母はやさしかった。白人の家の掃除婦になって働いていたけど、あたしを仕事に連れてってくれたり、おさがりを貰ったら分けてくれたり。伯父が八ドルの冬のコートを買ってくれて、生まれて初めての寒い思いをしない冬になった。そんな高いコート着たのは初めてだった。六一年頃のこと。
父はそんなふうになったけど、あたしはやはりずっと父のようになりたいと感じていた。南部にいたときの彼はいつも活動していた、いつも何かに衝き動かされていた。聡明で、よく働いていた。大学へ通っていた頃は二十七キロの道程を往復して、帰ってきては、黒人が大学へ行くことなんか不可能だと父にいった人びとの子どもたちを教えた。南部の人びとは父を尊敬していたのに。人びとの人生を変えることのできた人だったのに。
3 親の家を出るために結婚した
――働きながら大学を卒業して、ソシャルワーカーになったのね。いつだったか、あなたは「結婚したのは家を出るためだった」といった。
それ、憶えている。大学を出て、独立してアパートに住みたいといったのに、両親は猛反対だった。ただちにあたしは自分でもそれと意識せずに、家を出る方法を探しはじめたのね。スミス大学で修士課程に入れてくれたけど、お金がなくて断念しなければならなかった。両親はそんなに欲張るもんじゃない、というし。あたしは自分はほんとに変わり者なのかもしれない、大学ももう卒業したのにまだ独身だなんて。両親はあたしを恥じているみたいだった。アパートに独身の女がひとり暮らしをするのは売春婦の場合だけだといって。職業のある女だって、だめだと。一九六三年の話よ。外泊も許されなかった。伯母と話している時だって確かめたりしてね。母は十六で結婚したのだから、若い女の暮らしのことなんか全然わからない。父はソシャルワーカーとしてのあたしに文句ばかりいって。もっと金の取れる仕事をしろとか、もっと多くの経験を積める職場を見つけろ、とか。彼は自分のやっていることに不満だったから、あたしにそういうことばかりいったのね。
結婚しようか、といわれて、あたしは結婚した。結局、あたしはひとりで生活することはないまま、両親の家から夫の家へ移ったの。十三の時から働きはじめたけど、いつも親の元を離れたことはなかった。いつも誰かが家賃を払ってくれる生活だった。ひとりでもやっていけるのだとわかったのは三十二歳になってからなのよ! 結婚したのは、家を出るにしても、親があたしを誇りに思える方法で出ようと考えたから。間違った決心のつけかただったかもしれない。夫がミルウォーキーでなく、ラシーヌに住んでる人だということも魅力だった。親の愛は子どもを圧し潰すのね。子どもは空気が足りない、息がつまるとあがくの。親の愛には憎しみが混じってもいるような気がする。憎しみのある愛。
親が子どもを愛さなかったら誰が愛する? この憎しみに満ちた世の中で、子を守れるのは親だけだと、そう感じてるのね。あたしは親のいうこと無視して、眉毛を抜いたり、髪を染めたり、脚の無駄毛を剃ったりしてね。顔の毛を剃る? 母はびっくり仰天! スカート丈も短くして。姉はたったひとりのボーイフレンドとつき合っていた。もし彼女が妊娠しても相手は誰だかすぐわかるから、これは重要なことだった。姉は恐怖を教え込まれていたの。つまり妊娠した場合と監獄行きになった場合は、知らないぞ、おまえは独りぼっちになるのだぞ、と。死ぬほど怖がらすのよ。妊娠か、監獄!
――でも実際に娘が妊娠してしまったりすると、こんどは親たちはせいいっぱい助けるのよね。
そう。でも前もって脅かすことについてもせいいっぱいやるのよ。
結婚して四年たって、子どもが生まれた。女の子。それから三年して、男の子が。夫は子どもはほしくない、といったけど。そして三度目の妊娠。これは夫もあたしも計画してなかったもの。夫はひどく動揺して中絶しろといった。あたしはその子を産まない理由はない、と思った。産もうと思った。夫の態度がいやだった。でも結局、中絶専門の診療所へ行って。その時あたしの話し相手はあなたの姑《かあ》さん(ジョンソン財団の企画員をしていた)だけだった。彼女がずっと傍にいてくれて。
中絶を決意したのは、そうしなければ離婚だ、と夫がいったから。あたしは何が何でも結婚を壊したくないと思ったのね。中絶手術は不完全なもので、あたしは死にかけたの。子宮外妊娠だったのに、医者はそれに気がつかなくてね、手術のあとで、破裂して、ひどい目に会って。妊娠四カ月目だった。あとで医者は、とても助かるとは思えなかったといっていた。
死にそうになって、これこそ男のためになら何でもする女というものの究極的な姿だとわかった。男の気に入るためには、中絶までするのよ! 子宮外妊娠で、結局あたしが子どもを殺したわけではなかったということだけが、せめてもの慰め。
その後しばらくして、夫は離婚したいといい出してね。あたしは自分が三十歳になったら死ぬような気がしていたのだけれど、子宮外妊娠で死にかけた。でも死ななかった。あたしがここで死ななかったのは、あたしの人生にはなにか大きな目的が与えられているのだと考えてね。その後の人生はもうあたしのものじゃないような。宗教的な面でも以前より真剣になったし、仕事にもずっと真面目に取り組むようになった。そしてその頃夫が離婚のことをいい出した。あたしは、あたし自身を家庭生活に捧げることこそ人生の目的なのかもしれないと考えて、仕事を辞めようとしたら、夫はさらに離婚の決意を固くしてね。たしかにこの男性との関係にあたしは多くを注ぎ込んできた、でもある日、仕事に向かう途中思ったのよ。
「もしこの結婚はもう続けることのできないものなら、もし何か別の使命のために諦めなければならないということなら、そうしよう」
こころの準備はできた。財産をどうするかなんて、どうでもよかった。弁護士は「しっかり握ってなくちゃ駄目だぞ!」といった。両親は「彼のところへ戻って一緒に暮らしなさい」といった。あたしは「あんたたちが行って一緒に暮らしたらいい」と答えた。夫がどうしても離婚したいと宣告した日、あたしは仕事を辞めようとまで考えていたところだったから、仕事もなく、妻でもなく、母親ですらなくなるとしたら、あたしという人間が何者であるかを示すものは皆無になるのだ、と思って、へたへたと床に坐りこんでしまったの。でもそんなことでいいはずはないと感じて、四歳の息子をつかむようにして車に乗せ、そのまま自分のアパートを見つけに行った。あたしが誰なのかを探しに行くみたいにね。
4 財団も辞めた
成長するってのはたいへんなことなのね。とても苦しい。でも仕方ない。あたしが次にしなければならなかったのは、「ジョンソン財団」を辞めることだった。快い仕事を棄てることが必要だった。その仕事はもう安らかな巣みたいになっていたから。
で、「モット財団」へ移って企画をやってね、社会学の本なら、「成功した黒人の話」としてあたしを扱ったと思う。そういう地位にいたから。でもあたしは全然しあわせな気持になれなかった。あたしには他にしなければならないことがあるはずだという感じから逃れることができなかった。
ある暑い夏の日のことだった。サード・ストリートを車で走っていてね。黒人のゲットーよ。接続点がここにある、って思った。でも何をすればいいのか? 修士号まで取って白人の社会で成功したあたしには、一体このサード・ストリートでは何ができるのか? だから「モット財団」はやめた。そこからどこへ移って何をするのか、見当もついていなかった。あたしは神にいったのよ、「死ぬはずだったあたしを死なせないでおくことにしたのはあんただから、あんたがきめなさい!」一九七七年のこと。アフリカヘ派したのはその年だった。
ある日、突然弟から電話がかかって、商売の規模が大きくなりすぎて手に負えなくなった、助けてくれという。乗っ取られそうでもあると。それからの三カ月、あたしは夜も昼も働いてね、日に十六時間ぐらい。弟の商売も管理がいきとどいて売上げも増えた。あたしは、そうだ、黒人の小企業の経営者たちを助ける方法を考えようと決心して、自分の小さな会社をつくってね、この二年間そういうことをやってきた。将来どうなるのかはわからない。でも現在やってることは大切なことだということだけは確かなの。それでいいと思う。
教会のことは重要なの。まず離婚して、そのあたしがあたしの家族が属している教会へ足を踏み入れるということはやさしいことじゃなかった。あの教会では「離婚する女は福祉手当を貰っているような女のやることだ」っていうような態度が普通だから。でもあたしは背筋を伸ばして入って行った。あなたの姑《かあ》さんがそこでも助けてくれた。あの人は岩みたい。「ユーニス、生き続けるよりほかにないのだから」といってね。
あの教会もあたしの家族も、あたしのある部分を拒絶していたと思う。教育がありすぎると精神性は低くなる、と彼らは感じているから。あたしはその点も克服しなければならなかった。逃げることによってではなく、そこに留まることで。あたしは基金集めも真剣にやるし、週に一度「プロスペリティ」という名のクラスを教えている。これは「接続点」を発見できずにいる人たちの手助けをする目的でやってる。個人の内面と宇宙的な法則との接続点。自己の内部にあるものを信用することから始めようと。
――あなたのクラスに出ている若い女性、二人とも独身のままで子どもを産むと決めた女性と話したけれど、彼女たちにはあなたとの話し合いが非常に重要な意味を持っているということがわかった。
あたしは教会という場を通して、彼らが黒人であるということを肯定的に積極的に理解できるように手を貸したい。考えることができる、ということはあたしたちの資産だと思うの。アフリカで見たあの薪の束。あれは身体の力だけではとうてい動かすことのできない物だった。あたしは見たんだから。確かめたんだから。内なる何か、なの。力。あたしたち一人一人にあるもの。何も黒人に限ったことじゃない、こういうことは。日常的に転がっている力ではないかもしれない。危機に際してのみ現れるものかもしれない。
六〇年代以降、黒人は黒いことをすべての不幸の原因にするような傾向が見えてきた。そんなことじゃつまらない。あたしたちには膨大な力と知性があることを知るべきなの。混血だからとか、両親がいないからとか、女だからとか、黒いからとか、貧しいからとか、そういう外側に付着した条件を取り払って、一気に、内面と宇宙的な法則とを接続すること。皆と討論して、あたしも学んでいる。
――どのような考えで子どもたちを育ててきたか話してくれる?
あたしは子どもたちと一緒に暮らさせて貰っていることをありがたいと思う。夫にだって養育する能力はある。でもあたしにやらせてくれてる。子どもたちはあたしの生活に一つの安定を与えてくれていると思う。
でもあたしは、夫とも他の人びととも子どもたちを分かち合う。結婚生活がまだうまくいっていた頃にも、あたしは二つの原則は守りたいと思った。一つは、この子どもたちのために何かできるのはあたしだけだ、とは決して思わぬこと。もう一つは、だから、子どもたちがあたし以外の大人たちを広く愛し、親密な親しい関係を持てるように育てたい。二人は小さな頃から誰とでも親しくできた。世界が広く彼らの目前に広がっていることを知っていた。子どもたちには、母親の所有欲の強い愛情以外の愛に、早くから触れてもらいたかったのね。
離婚して一年間、あたしは母親の役と父親の役の両方を演じようと必死になった。スーパーウーマンだった。でもある時、あたしすっかり消耗しちゃって。泣き出してしまった。ああ、もういやだ、おとうちゃんの役までできない、母親しかできないよう。子どもたちに対してだけでなく、その一年間のあたしは誰に対してもスーパーウーマンだった。あたしの痛みについて知る人は少なかった。でも最終的には、ええ、とてもつらいです、というようになって。もう弁解もしないし、説明もやめた。
子どもたちに対してもね。あたしは母親にすぎないのよ、母親と父親の両方じゃないからね。父親がいないために我慢しなければならないこともあるけど、それでいいんだからねと。
この頃思うのは、あたしは子どもたちに肉体を与えたにすぎないということ。子どもたちの魂は彼らのもの。できる範囲で教えられることは教えるけど、支配することはできない。三つの原則だけは守ってほしい、というの。一、大人が話をしている時には黙って聞きなさい。大人が間違ったことをいうことはいくらでもあるだろうが、人のいうことに耳を傾けるだけの礼儀をわきまえていなかったために、いつか重要なことを聞き逃し、命を落とすことだってあるのだからね。これを守らなかったら、お尻をぶつ。体罰よ。二、物を壊すな。三、どのようなことがあっても、人を嘲ってはいけない。人はそれぞれ違う能力を持っているのだから。 あたしには両親がいたけど、それでも子どもの時からいろいろ責任を持たされていた。だから子どもの能力というものはわかってる。七歳で、あたしは家族の食事を作った。息子は七歳で自分の朝食の用意ができるようになった。あたしはそれについて罪悪感を抱いたりはしないの。彼は冷凍のピツァを焼き、スクランブルエッグを作る。いま八歳半。娘は十二歳半。彼らは学校へ行く。それは彼らの責任の範囲。
父親から子どもたちを遠ざけようとは全く考えないの。十三歳になったら、とうさんのところで暮らすよ、と娘はいってる。ショックだったけれどしかたない。子どもたちは父親が再婚した相手が大好きなの。最初は、ええっ? と思ったけど、考え直してみれば、そういう具合に育てたのはあたしだった。
――子どもは超越的な存在からほんのいっときだけ預からせて貰ってるという気がしない?
神から借りてるのね。友人もそう。前の夫も一時的に借りてたの。彼はあたしのものだと思ったことは一度もなかった。でも、同時に、子どもたちはあたしを選んだとも感じるの。でもあたしは肉体を与えただけ、いつかは来た場所へ帰してやらなければならない。
いまでもね、物を一切合財棄ててしまいたい衝動に駆られることがある。朝、目を覚ます、生活がしっくりしない、戸棚を開けて、洋服を出して、全部友人にあげちゃった。デザイナー・ドレスだとか何もかも。自分の生活のきちんとした展望の中に物があるのなら、それはいい。あたしにはまだそれができていない。物が浮き上がってしまう。だから何もほしくない。きちんと人の役に立つような人間になったら、物たちは皆自然にあたしのところへ戻ってくるのよ。子どもの頃は、きょうだい五人の他に、いつもどこからかきた子どもたちが一緒に住んでいた。なぜだか世話することになって。あたしたちは、たとえば「ユーニスの所有」と名のつく物は持ったことはなかった。すべて皆の物だった。朝起きたら、とにかくそこらに余っている衣類を身につけるの。そんな生活が、閉ざされたものを好まないあたしを作ったのかもしれない。
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