『塩を食う女たち――聞書・北米の黒人女性』 藤本和子

目次    


生きのびることの意味
――はじめに

接続点

八百六十九の
いのちのはじまり

死のかたわらに

塩喰い共同体

ヴァージア

草の根から

あとがき

あとがき


 北アメリカの黒人女性からの聞書として記録した文章を、このようにひとまとめにして読み返すと、こころを開いて語ってくれた人びとの声がまた聞こえてくる。多くは初めて会った人たちだった。黒人として、女として、自らを生み出してきた女たちだった。先入観やせっかちな判断を頭から払いのけて、わたしはじっと耳を傾けたかった。寛容にこころを開いて語ってくれる彼女らにむくいるには、それしかなかった。彼女らの驚くべき雅量と、率直さと、暮らしの要素を意識化する能力なしには、この報告も書けなかったことだろう。書くという行為の一つの結果としてのこの報告を可能にしたのは、いうまでもなく彼女たちである。
 閉じこめられたくない、という気持を抱いてわたしは暮らしてきたと思う。永遠に傷づくことのないかに見えるにほん[「にほん」に傍点]的な共同体意識や、図式に変身しがちな思想の数々に閉じこめられたくないと。意識をくり返し脱皮し、ひろびろと視野を開いて、生の実質をつかみたいのだと感じてきた。他者のたたかいを見ることは、とりわけ生の実質を語る力を持つたましいの遺産を受け継いできたかにみえる、これらの女たちの言葉に接触できたことは、それについて多くの手がかりを与えてくれた。はじけるように発せられた言葉に、わたしは一瞬自分の背中の表情さえ変えられた、と感じたこともある。
 このように、この聞書を記したわたしという者は、他者の理解ということを過程として考えているようだ。自らを生み出すためのプロセスの一側面であると。無色透明のわたしが耳を傾けるのではなく、自分は誰なのか、と問い続けながら、わたしをつくってきた私的な体験や、歴史の背景や、にほん人としての意識の質を問い続けながら、同時に相手のことばを、相手の、独自の体験と歴史を精神世界の脈絡の中でとらえ、わかろうとつとめることだ。一方的にアメリカのことや黒人女性のことを報告し、こちらの知識を増やせばいい、あるいは自己の成長のために利用すればいい、というものではない。拮抗する磁場はどこか、共有する磁場はどこか。ただ身をすりよせて行くことでもなく、ただ客観視する(純粋に客観視することなど、ありえないことだが)ことでもなく、わたしの思想の欠落部分を指示してくれるものを知るようにすることでなければならない。
 それにしても、『思想の科学』誌に一九八一年七月号から一九八二年八月号まで、時折り中断しながら載せてもらったこの文章を読み返して感じるなつかしさは何だろうか。このたび、このように一巻にまとめることになって、連載した順序をそのまま残し、ほとんど書き直しも加筆もしなかった。わずかに触れただけで、報告できずに残ってしまった女性たちも多い。明らかに未完結の一巻である。
 とはいえ、時間というものは勝手にどんどん過ぎるもので、聞き歩くことを始めた当時にはまだこの世に生まれ出てもいなかった娘も、そろそろ三歳になってしまう。ジョージアとミシシッピーを訪れた旅の時には、彼女は生後七カ月で留守番をしていたが、帰宅したわたしが食事を食べさせようとすると、大粒の涙をぽろぽろこぼして泣いた。父親の世話だけで留守居をしたのだから、父親に食べさせてもらいたいと泣いた。父親は「なぜ泣くのだろうか」とわからぬ風情だったので、「あなたでないといやなのよ」と渡したら、泣きやんでぱくぱく食べた。その娘ももうことばを使うことができるのだ。「あなたは天使だね」といえば、「ちがう、あたしはろばだよ」という。彼女が去年の八月から頑張って保育園へ通うようにしてくれたから、この報告を書くことができた。夫デイヴィッド・グッドマンもあらゆる面で助けてくれたから、書くことができた。ぐずのわたしもこの二人が真剣なおももちで暮らす連中であるために、あまりぼんやりしていられないのだ。
 最初の四章は一九八一年の冬と春に東京で書いた。そのあとは、アメリカのカンサス州で書いた。話を聞かせてくれた女たちに関するこの報告で、彼女らの姿がわたしの矮小さのためにひどく歪められてしまっていないことを祈りながら、報告を共有してもらえればうれしいとも思う。
 なお、表題の『塩を食う女たち』は、トニ・ケイド・バンバーラの The Salt Eaters から、彼女の了承を得てつけた。
 単行本にするにあたっては、いつもはげましてくれる晶文社の津野海太郎さんと、村上鏡子さんにお世話になった。ありがとう。

一九八二年九月 藤本和子


晶文社 1982年10月30日発行




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