Ghosted(下)

イリナ・グリゴレ

駅に着く前から長年も戦っている恐怖症が発生してかなり息がし辛くなっていたが、あまりにも慣れていたせいで周りの人の誰にも気づかれない。電車から降りる支度をして落ち着くまで席に座って呼吸に集中した。息は見えないがシャボン玉の形をした、何か丸いものであると確信した。丸いものを飲み込むような感覚。中に空気が入っているが次の丸いものが口の中に届くまで空気がない状態。最近見た若手カナダ人アーティスト、Gab Boisの作品を思い出した。彼女はよく食べ物のモチーフを使うが自分の注目を集めたのはすごくシンプルな作品。普通の白黒の壁時計の針をマスキングテープで止めてある。ただそれだけ。でも考えてみれば凄いことだ。自分もあの日からマスキングテープで時間が停められたような感覚だから。      

なぜ彼女は電車で急に恐怖症になったのか、人類はいつか宇宙で暮らす時が来たら水も掬うように丸くしたまま飲むようになるけど、この飲み方はとても苦しいと思ったから。絶対に宇宙で暮らしたくない。生理の滴もまるいということだ。赤い丸い滴が宇宙ステーションの中を飛んでいるというイメージが急に美しく感じられた。それで思い出したのだ。そういうときに自然と落ち着くから、高校生の頃に読んだ2冊を出張に必ず持っていく。1冊目はマリー・カーディナルのLes Mots pour le dire (「言うコトバを見つけて」)だった。7年も原因不明の病気と闘う女性の物語。7年も生理が止まらないという生々しい病状。精神病が原因と思われていた。彼女もよくわかっている。少なくとも宇宙ではレイプする男が現れない。それは性行為が難しいからだと言われる。  

こういう女性は狂っているとみんなが思いがちだけど、女性ではなくみんなが狂っているだけ。自分だってあの日のことを一生忘れることがない。拷問のように再生される。それで、あの男性は誰だったのか、今は生きている(できれば死んでいてほしい)かどうか、人間だったと思えない時がある。幽霊のような気配。彼の感覚が彼女の子宮から出ていない、今でも。そう感じる。こびり付いている。それでいろんな男と肉体の関係を持っていればあの人が自分の子宮から出ると思ったけれど、逆に自分がもっと汚れてしまった。「ずっと一緒」と言う恋人同士の決まり文句は気持ち悪い。あの人だって、あの人の自分を触る感覚、ずっと一緒だから。

「大丈夫ですか? 終点です」と駅員の声が聞こえた時にも吐きそうになりながら、どうにか抑えて、身体感覚を取り戻した。駅から降りると、店が並んでいるところの花屋の前にジプシーの占い師がいて彼女を止めた。「奥さん、呪われている」と言われたけど自分は呪いなんて信じないから通り過ぎることにした。呪われているのもあるとしたらそれは生まれつきで、性別が分かった時点から。女性の身体で生まれて子宮がある時点から。セラピストはたまたま男性だったが何も分かってない。自分のトラウマのこと。わかっているふりをして頭を動かす。フロイドだってただの詐欺師だ。男性を嫌いになっているわけではないけど、どう接していいかわからない。彼女はもしかしたら呪いなどを信じないからこそ苦しいのかもしれない。信じたら楽なのか。男は昔から自分を物としてしか扱わない。結婚する前に妊娠中絶もあって、本の主人公と同じで、何ヶ月も生理が止まらないまま過ごした。その時の痛みはなんのためだったのか。誰の子供だったのかもわからない。悩み過ぎてまた自分の身体を傷つけた。バリバリ働く自分が苦しい。男性のようだ。長く同じ家に居られない。全ては劇のようだ。

彼女は駅前でタクシーを拾ってホテルへ向かった。運転手のお喋りは耳に入らなかった。またパニック状態となった。自分が思い出したくないことを思い出したから。何ヶ月か前に同じ場所にいたこと。そして、今日は花屋さんの前にいたジプシーの代わりにあの人が彼女を待っていた。そう、彼女には酷い癖がある。知らない人にナンパされたら、男の誘いに負けて、一晩一緒に過ごす。自分は価値がない人間だと自分に証明するため。それだけではない。あの人を探しているように、知らない人と肉体関係を持つことによって自分をレイプした人と再び会える感じがする。このメカニズムが理解できても、中毒のようで止められない。だから必ず出張先のホテルは二人用の部屋を予約する。彼女は一生、あの人の幽霊と生きるのだろうか。十分疲れたのに。あのジプシーの女性に相談すればよかったと急に考えが湧いてきた。何かヒントをくれたに違いない。タクシーの運転手はずっと喋っているのに何も聞こえない。英語で喋っても全く言葉の意味がわからない、声さえ嫌だ。男のコトバなんて前からわからない。いつからなのか、あの日からずっと。

高校性になって違うクラスの男子の家に行くようになった。毎日のように。妊娠してはいけないから、自分の身体をただの物にしていろいろやらされた。ああ。思い出したくない。ある日、彼の母親が早く仕事から帰ってきたので、急いで女友達のところへ逃げた。お風呂を使わせてくださいと真っ青な顔で言った。友達は優しいからすぐ家に入らせてもらって洗面所で顔を洗って吐いた。その後で何が起きたのか笑いながら友達に説明した。その実、彼女は笑ってなかった。自分でもなぜ笑っているのか分からなかったが笑うことしかできなかった。ただの物から人間の状態に戻るまでには時間がかかる。その繰り返しだ。自分の人生は。このループから出られない。飼っていたハムスターと金魚の死を悲しく思う、猫と小さな子供が好き。家から何日も出たくない。出たら、また性的なモノになってしまうだろうから。

タクシーがホテルの前に着いたので、支払いを済ませて降りた。運転手の声がまだ耳に響いていて、ひどく目眩がした。ちょうど降りた瞬間、ウェディングドレスを着たかわいい女性と目があった。羨ましいと思う自分がいてもっと目眩がした。こんな背の低い、かわいいらしい女性の姿には一生なれない。自分はいつも痩せていて、古臭いスタイルのワンピースしか着てない。結婚式も挙げたけど全ては演技のようだった。幸せになったことが一度もなかった。それでも自分は良い妻、良い母親であることには変わりない。料理も得意。でもあの日のことをどうしても忘れることができない。仕事から帰って、スープを作りながら考える。あの日がなかったら自分の人生はどれだけ違っていたのか考える。

「今日はお二人様ですね」とチェックインで言われた時。自分がまた二人部屋を予約していたことを思い出した。「いや今日は一人で泊まる」と答えると、若い女性スタッフは事情を想像ができるような共感しているような口調で「そうでしたか、わかりました」と答えた。部屋に着くと、潔癖症な彼女はすぐシャワー浴びて新しい服に着替えた。同じようなワンピースを何着も持っている。いつもいいホテルに泊まる理由がある。いいホテルに泊まると自殺したいと思わないから。酷い部屋だったら本当に考えるかもしれない。高校の時から父親の影響で聞いていたピンク・フロイドのWish you were here(あなたにここにいてほしい)という曲だ。

そう、自分が理解していると思っている
天国と地獄との違いを
青空と苦痛との違いを
君は緑の草原と冷たい鋼鉄の線路との違いを分かっているだろうか?
微笑みとベールに覆われた顔との違いを?
君は自分が理解していると思っているのだろうか?

彼女は歌詞をだいぶ昔から暗記して、いつも口にしていた。特に、「俺たちは金魚鉢の中を漂う二つの抜け殻の魂そのもの」というくだりが好きだった。こういう時に、時間が止まったように高校生のころに死んだ金魚を思い出す。様子がおかしいので親友を呼んで一緒に最期を見守った。瞼がない金魚は目を開けたまま死ぬ。この狂った世の中ではこの曲と2冊の本があればなんとか生きていける。ギターもこの曲のおかげで少しだけ弾けるようになった。ギターの先生にキスされるまで。またレイプされそうになったので、ギターはやめた。

今夜はどう過ごせばよいか考えてなかったが、久しぶりに一人でケーキを食べることにした。甘い物は好きではないが、ウイーンに来るたび本物のザッハトルテを食べるというちょっとした儀式をする。前回食べなかったから今日はホールで買ってホテルの部屋で食べることにした。

何ヶ月か前に同じホテルに泊まり、仕事で出会った男性と演劇を見て一緒に帰った。彼からの連絡は二度となかった。あれも幽霊のような男だった。劇を見ながら彼の息を自分が吸うような距離だった。あの時も恐怖症になって息ができなくなったが、隣が座っている彼の息を吸った。それしか覚えてない。ただ、全ての男性に言わなきゃいけないことがある。手で、指で激しく触ってほしくない。自分が絶望するほど嫌い、男の手の感覚が。そうだ、今日は一人だし自分に花を買うのだ。

彼女はホテルを出て夕方の光を浴びながら下町を歩きはじめた。近くのケーキ店でザッハトルテをホールで買って、花を買おう。今日はDemelのザッハトルテがいい。アプリコットのジャムとチョコレットの相性が良くて。もし自分の人生に味付けができたらこの味でいい。17センチのホールで注文して、きれいな木の箱に入ったザッハトルテを受けとって店を出た。たしかに近くに花屋があったはずと探し始めたとき、不思議なイメージを見た。地面に黒い服を着たすごく痩せている男性が倒れていた。

倒れているというより、彼は座って動けなかった。周りに警察官が3人いたが、彼らもただ固まって彼を見つめていた。あの男に何が起きたのか誰も想像つかないぐらい、彫刻のような固さだった。でも死んではいなかった。いったいなんで彼はウイーンの道の真ん中に座り込んで動けなくなったのか、彼女にはわからなかった。でもあの男性を何処かで見た気がする。いや、とても近くで見たことがある気がした。空から落ちたように彼があの場所に現れて、何も話さずにあそこに座って、彼女の目の前にいた。まさに、彼女の思い出からでも降りたように彼女に深い恐怖を与えた。彼女はびっくりして泣き始めた。そしてその場所を離れてホテルに逃げた。そっくりだった。確かに黒い服を着て、痩せていて、髪が長かった。全てが終わった後のあの姿勢もそっくり。座って、片方の膝の上に腕を乗せていた。何十年も前と同じ姿勢。警察官も彼を見ていたから彼女だけ見たはずではない。この男は逮捕される。

ホテルの入り口に着く。下を向くと白い羽を見つけた。その小さな羽を手に取ってエレベーターに乗った。誰かに言われたが、突然白い羽を見つけると近くに天使がいる。天使は彼女を通り過ぎて羽を落としたのか、と彼女は妄想した。急に落ち着いた。先ほどの男性が可愛そうと思い始めた。酷い苦しみの像のようだった。今まで彼女を性的なものとして扱っていた男性のことがかわいそう。

部屋に着いた瞬間に手をよく洗ってからザッハトルテの木の箱を開けて、箱の蓋の裏に貼ってあった真っ白なナプキンを何も考えずに長く望めた。綺麗だった。スプーンで一口取って食べた。気づいてなかったけどお腹が空いていた。このケーキの中のアプリコットジャムとはとても上品な味だ。チョコレートの甘さをよくおさえていて、お気に入りの酸味。彼女はもう一冊のいつも持っている本をカバンから出して読み始めた。それはサリンジャーの『フラニーとゾーイ』だった。