『アフリカ』を続けて(48)

下窪俊哉

 昨年7月に『アフリカ』前号(vol.36)を出してから、もうすぐ1年がたとうとしている。正確に言えば前号というより、現時点での最新号である。この連載を続けて読まれている方は、あれ? これからは年に3回くらいのペースで出してゆきたいという話ではなかったっけ? と思われるかもしれない。何を隠そう、私も、そう思っているひとりなのだ。
 言っていること(考えていること)と実際の行動は一致しない。いつもどこかズレている。だから面白い。しかもこの場合、大きくズレていると言わざるを得ない。『アフリカ』は自分だけの場ではないので、発表できると思う原稿が続々と集まってくれば、どんどん出してゆけるのだが、そういう状況では全くないということだ。1年前の私は、流れを見誤っていたかもしれない。あるいは流れそのものが変わったのだろう。

 その間、『アフリカ』が何の動きもなく静止していたのかというと、そうではなく、むしろその逆だと言える。
 編集人(私)は送られてきた原稿を読み、返信のメールや手紙を書くのに忙しかった。ただ、そのままで載せられる原稿が少なく、しばらく待っていた。待っているうちに1年たってしまったというわけである。
 中には、大幅に手を入れてもらって、あるいは度重なる書き直しの末、次号に間に合いそうな原稿もあるし、そのままお蔵入りしてしまいそうな原稿もある。
 ある人からは「これだけ見てもらって申し訳ないのだが、『アフリカ』がダメなら別の場所で発表してよいか?」という連絡あり、「それはご自由に、と思いますけど、自分で納得できない原稿を発表しちゃダメですよ」と返事しておいた。このやりとりから、自分は”発表する”ことをあまり重視していないのだな、ということに気づいたりもする。
 それにしても、『アフリカ』を19年やってきて、編集人がこれほど厳しくなっているのも珍しい。初めてと言ってよいかもしれない。いつの間にか、自分の読みが厳しめになってきているのだろうか。これまでにも書き慣れていない人の原稿を『アフリカ』はたくさん発表してきたはずなのに、ここまで原稿を落とすことはなかった。
 書き手に上手さを求めてはいないはずである。それは変わっていない。だから、もっと上手く書け、と思っているわけではない。ただしある程度は原稿を完成させてもらわなければ、『アフリカ』には載せられない。では、その”完成させる”とは、どういうことになろうか。自分でもちょっとわからなくなってきたので、ここで少し整理してみたい。
 しかし未完(成)の原稿でも、良いと思えば載せるはずだ。だから”完成”ということばで考えている限り、前に進めないかもしれない。別の言い方を探ってみよう。
 読んでいて、「これはどういうこと?」とか、「こう書いているのはなぜ?」とか、質問して聞いてみないとわからないことが多いのである。しかし、よくわからない内容のものでも、私なら載せそうだ。だからこう言ってみればどうだろう、もっともっと書いてほしいと感じる、と。冗長になりすぎているから、もっと削って(研ぎ澄ませて)みてはどうか、と伝えることもある。たぶん同じことで、書き込みが足りないからそうなるのである。手加減しないで書けるだけ書いて、じっくり推敲して削れるだけ削り、何が現れてくるかを探ってほしい、ということだ。でも、それが、なかなか出来ない。読んでいる私に見えてこない、聴こえてこない、感じられないのである。書こうとしていることを、書き手はわかっているのかもしれないが、読者には伝わらないだろう、と明確に言えるのだ。そして可能なら、書くつもりのなかった何かと出合うところまで、私は付き合いたいのである。
 じつは前号で小説を発表していた4人のうち、私を除く3人は今回、今のところ書いていない。つまりまだ読ませてもらっていないのだが、書かないというよりも書けないのかもしれないと思う人もいる。「なかなか覚悟がつかなくて」という連絡をもらったのだが、なるほど、書くのには覚悟が要るかもしれない。でもそういう人には、まあそう言わず短い雑記でもいいから気楽に書いてみてよ、と言いたくなる。

 SNSを見ていると、続々といろんな本を読破して、その報告をしているアカウントも目に入る。不思議なものだ。よくそんなに勢いよく本が読めるものだな、と。それが仕事であればわかるけれど、そういうわけでもないようで、私にはそんなふうに本を読むことが出来ない。ふと思ったのだが、書いている時と同じとは言わないまでも、それに近い力を使って読んでいるとしたら、遅くなるのは当然のことだ。
 速く読んで、どのように書かれているか、その細部が見えないのは、確かに仕方のないことだろう。しかし私は、そういうところをこそ読まないと、本を読んだ気がしない。
 ここまで書いてきてわかったのだが、細部に力が感じられて、じっくり読める、そんな文章が連なってギュッと詰まっていればいるほど、私にとっては良い原稿だということになりそうである。特に短篇、中篇くらいまでのエッセイや小説には、そういうことを自分は感じているようだ。そうやって思う存分書かれていさえすれば、多少破綻した部分があろうが、未完成であろうが、『アフリカ』には載せるだろう。

 先日、大岡信さんの『あなたに語る日本文学史』を読んでいたら、こんなことを言っていた。

「私はこう思って書いたから、それで分かるだろう」というけれどそうではなくて、「私はこう思って書いた。その書いた文章はこうだ。それを読んで読者がもう一回、私が感じたことをこの文章を読んで感じてくれるかどうか」というところまでいって、はじめて評価になる。ところが大抵の場合が、「私はこう思って、こう見て書いたのだから、それで分かるではないか」というふうに言う人が多いですね。批評というものはそれでは成り立たない。そこが大きな問題です。

 ここで言われていることは、私には当然のことなのだが、そうではない人が多いということだろうか。先日、私はある人に「文章というのはことばで成り立っているのであって、書き手の思いとか、気持ちとかで出来ているのではないんです」という話をしていた。しなければならなかった、と言いたいところだ。

 世界中を旅して本当にいろんな、多様な場所で演奏するサックス & メタルクラリネット奏者・仲野麻紀さんは俳句を嗜み、文章を書く人でもあって『旅する音楽』という本があり、この10年ほど愛読している。その中に、こんな記述がある。

 ひとりの人間の考えは行動することで真の思考となる。行動がなければ、それはいつまで経っても机上の論理。わたしはそういう論理だけの世界の中で、居心地が悪い。目の前にあることから、自分自身で実行(=翻訳)していこうと思った。やがてからだを張った言葉の翻訳(=実行)は小さな出来事となるだろう。

 文章の中にも”行動”がなければ、と私は思う。そのためには、感じなければならない。何を? 世界を、ということになろうか。書いて、読む中には空間が生まれる、ということを以前、私は書いたことがある。その空間を感じる。そうすると、その中で何か、動きを起こすことが出来るだろう。そこに私は、感覚表現の可能性を見てゆきたいと思っている。