話の話 第14話:身に覚えがない

戸田昌子

KYOTOGRAPHIEの季節である。KYOTOGRAPHIEというのは写真のフェスティバルで、毎年1回、ゴールデンウィークをはさんだ1ヶ月あまり、京都の各地で写真の展示が行われる。これでもわたしは写真の専門家なので、毎年その時期に訪れて、なるべ無駄なく、できるだけ多くの展示を見てまわることにしている。「わたしの展示、見てくださいね」「自分がキュレーションしたんでよろしくお願いします」「うちで本出してる作家さんなんで是非」という案内が各所から来るため、義理を果たさなければならないからだ。そういうわけで、企業の協賛もついているメイン展示のほかにも、「KG +」(ケージープラス)と呼ばれている関連展示にもなるべく足を運ぶ。そうすると、いきおい、知り合いに会うことも増える。

そんなわけで、ふいに、「戸田さん!」と声をかけられるわけである。ふりかえると、ゼミの生徒さんである。「ああ、XXさん」と返事をすると、「あ、この人、社長です!」と隣にいた男性を案内される。きょとんとしていると、「ああ、XX(某有名レンズメーカー)の社長さんです!」と言われる。なあんだ、そのレンズメーカーだったらつい半年ほど前に、大学の学生さんたちと本社見学をしたばかりだ。言われてみれば、そのときに壇上で挨拶されていた社長さんである。そこでつい、「本社の見学ありがとうございました!ところでわたしの友人がXXのレンズの大ファンでしてね、XXでないと何も写らないんだと言っていましたよ!」とひとしきりレンズをほめ上げて調子良く会話を交わしてみる。お別れしたあと、ゼミの生徒さんに「XXの社長と友達なんだね、すごいね!」と話しかけると、「いえ、僕が一方的にお顔を知っているだけで、話したことはありません」と、あっさり。つまりその生徒さんは、ただ単に隣にいただけの有名レンズメーカーの社長さんを、私に一方的に紹介したというわけなのだ。社長さんにしてみれば、身に覚えのない知り合い風の人が、自分を勝手に知らない相手に紹介している状況が生まれていたわけで、申し訳ないこと限りない。結果、わたしは生徒さんとふたりで勝手に「社長!」と盛り上がり、一方的にまくしたてて帰って行った変な人に成り下がっていたというわけである。「そんな、いきなり社長さんですなんて言われたって困るよ……。変な人になっちゃったじゃないの」と生徒さんに文句を言っても、後の祭りである。

「知っている」というのは、実に変な言葉だ。仕事柄、名前が知られるにつれて、向こうが一方的にわたしのことを知っているだけで「戸田さんですか?知ってますよ!」と言い合っている人たちがいるらしいと聞いては、なおのことである。そんなことを言っている人がいれば「じゃあ紹介してよ」となることもあるわけで、そうなると、「いやいや、自分が一方的に知ってるだけで……」ともごもごすることになるのは必定なのだが、中には鉄面皮もいる。「こないだ、デザイナーのTさんに、戸田さん知ってる?と言われたから、ぼく、知ってますよって答えたんですよ!」とわたしに語っているその人は、そのときわたしの認識では初対面の人なのである。だから「いや、あなたとわたし、いまが初対面ですよね?」とつい突っ込んでしまう。しかし彼は、「いや、見かけたことがあるんですよ美術館の廊下で!」と言いつのる。わたしのほうは身に覚えがなくても、彼の方は断固「ぼくは戸田さんを知っている」という認識なのである。

とはいえ、人は年々、記憶力も薄れていくわけだから、身に覚えのないことでも、「知らない」とは言い張れないものである。なかでも酒を飲んでいて話したことややってしまったことは、だいたい身に覚えがないことが多いことだろう。たとえば朝、植え込みの中にばったり埋まっているサラリーマンも、場末の公園のブランコで「鬼殺し」の紙パックを片手にうなだれている人も、ストロング系チューハイを片手にパチンコ屋の開店を待っていたらタバコの吸い殻入れにしていた缶が右か左かどっちなのかわからなくなってしまった人なども、自分がしていることについては、だいたい身に覚えがないに違いない。

そんな人たちが朝の路上に散見される町で生まれ育ったのがわたしである。「鬼殺し」の紙パックを片手にうなだれている人を見かけたのは娘なのだが、そのうなだれ具合はどうやらとてもすごかったそうで、「日本うなだれ選手権」があったらトップクラスの点数を叩き出すに違いないほどうなだれていたのだという。もしそんな選手権があったなら、わが夫もきっと勝ち抜きたいに違いない、ぜひ出場してみては、とわたしが言うと「いや、ぼくが狙っているのは、こむらがえり世界チャンピオン」というのが夫の返答だった。たしかに数日に一度、夜明けに隣の部屋から声にならない悲鳴が聞こえることがある。「ああ、また、こむらがえりだ……」と、とりあえずしばらく放っておいてから、生暖かい声で「大丈夫?」と尋ねるのが慣例である。

「身に覚えがない」と言えば、娘は、自分の寝起きが悪いことについて、あまり身に覚えがないようである。冬将軍が去った春だというのに、我が家にはマダネル将軍が居座っている。そもそもマダネル将軍は年がら年中、居座ってはいる。朝、将軍を起こしに行くと、判で押したように「まだ寝る」とおっしゃるマダネル将軍。「わかった、5分たったらまた来るね」と言って、こちらはいったん退却する。そして再び起こしに行くと、ぐずぐずしつつ不満げではあるものの「止むを得ぬ」と将軍は起きてくださる。たまに「あと5分寝る」とおっしゃるゴフネル少佐が出る時もあるが、だいたいは時間を曖昧にしておきたいためか、将軍の出陣率が高い。こちらとしても「いますぐ起きるか、起きないか。イエスかノーか」を突きつけるとだいたい全面決戦となりろくなことがないため、ひたすら将軍を褒めたたえ、「仕方ないか、下々のためにも起きてやるか……」と譲歩させるという外交手腕を使うことが多い。

夫が持ち帰った秋田県の郷土菓子「バター餅」を一口ぺろりとした娘が「へぇー!」と声をあげる。わたしも一口いただく。バターの香りのする分厚い生八橋というていのお菓子で、カロリーだけはすごくありそうな味。娘は「ほうほう、寒い北の国では、カロリーがないと死に直結するからね」などと適当なことを言いながら渋茶をすする。彼女は、死に直結するような寒い思いをしたことはないはずなのだが、身に覚えもないことを口から出まかせで言う才能だけはあるようだ。

つい先日、フランスの妹の家に数週間滞在していた。彼女の夫は写真家、妹はデザインの勉強をして、いまはフランスの田舎町で食のアトリエをやっている。そんな夫婦と子ども2人の家族の家は、家具から食器から、目に入るものは何から何までこだわりのハイセンスな家である。さらに有機食品にも凝っていて、サステイナブルな暮らしを試みているので、使い捨てのものやプラスチック製品などには、ほとんどお目にかからない。各部屋にゴミ箱もないし、ティッシュ箱さえ、家族4人あたり1つしかないのである。大体のものは鉄製、木製、ステンレス、陶製で、プラスチックはほとんど存在せず、家電は最小限。洗濯機は80センチ立方程度の極小のものを使っていて、排水の問題もあり台所に所在なさげにちんまりと置かれている。「あんなちびの洗濯機でさえ、会議にかけないと買わせてもらえなかったんだから」と妹は不満げに言う。聞くと、彼らの家には「プラスチック会議」なるものがあって、プラスチックを使っているような電化製品はどんなものでも、買う場合には必ず家族会議が開かれるのだと言う。その会議では、全員に発言権があり、それは本当に必要なのか、プラスチック以外に代替手段はないのか、などについて事細かに話し合われ、全員が了承しない限り、そのプラスチック製品が購入されることはない。そのため、彼らの家には電子レンジがいまだに導入されていない。それは何度、会議にかけても、拒絶されてしまうからである。「このプラスチックのしゃもじだって、息子1が見とがめて、ぼくこんなしゃもじ買うなんて聞いてないよ、って言うんだよ」と妹。妹は「仕事で使うドイツ製の炊飯器を買ったら、ついてきちゃっただけだから!」と説明したそうなのだが、「ふーん」と疑りの眼差しで見られたのだという。身に覚えのない疑いを息子にかけられるとは、かわいそうな妹。

身に覚えがないと言えば、我が家の現在の冷蔵庫も、夫にとっては身に覚えのない家電であった。我が家の冷蔵庫は現在3台目である。2台目の冷蔵庫を買おう、と夫とわたしのあいだで相談していたとき、機能重視が行きすぎて「かわいい」という理由でものを買うことを否定してしまう夫は「これでいいじゃん」と、言われた途端にがっかりしてしまうような、灰色のつまらない冷蔵庫を指差したのだった。値段は確かに妥当だが、その冷蔵庫を毎日見て暮らすことを考えたとたんにブルーになったわたしは、もうこれは自分が好きな冷蔵庫を勝手に買うしかないのじゃないか、と考えた。そんなとき、まとまった原稿料が入った。これはもう、あこがれのユーチューバーさんが持っていたあの素敵な冷蔵庫を買う!と心を決めたわたしは、夫に無断で原稿料を投入し、冷蔵庫を購入。指折り数えて冷蔵庫の到着の日をわくわく待っていたが、さすがに身に覚えのない冷蔵庫がいきなり届いたら驚くだろうと思い直したわたしは、夫に「冷蔵庫なんだけど」と話しかけた。「ああ、そう、そろそろ決めないとね」と夫。「ううん、実はね、もうね、買ったのよ、自分で」とわたし。「え?」と夫。「どうしても欲しくてね。見た目がかわいいだけで機能は大したことはないし、そういう買い物するのをあなたに説得する自信はなかったから、ごめんね」とわたし。わたしの性格を知っている夫は、ほとんど絶句しつつも「まあ、いいけど……いつ届くの?」と尋ねた。「明日」と即答するわたし。ふたたび絶句する夫。そんな我が家では「プラスチック会議」は開くことは、今後もおそらく不可能だろう。

夫の会社には、責任を取らねばならないことにも、「身に覚えがない」で突っ走れるという、困った人材がいるそうである。アニメの異能力者や特撮キャラに例えると、たとえば「異能力!前言撤回」なんていう異能力者はは会社組織では珍しい存在ではないし、「異能力!責任逃れ」なんてのもゴマンといるそうだ。もちろん「異能力!責任転嫁」も出現率が高い。しかし、最近は新たなタイプの異能力者が増えつつあり、「異能力!意味不明」というのが存在しているそうだ。それはもちろん、何を言っているのかがわけがわからないのである。さらには言っていることが人間の想像力を軽く超えていく「異能力!奇想天外」というのが最近は出現しているそうで、それがありもしないエピソードを語りだすに至っては、「それって、ほぼ会社的には無能力ってことだよね」と突っ込まざるを得ない。「身に覚えがない」ということが、ただの記憶の欠落を超えて記憶の創作になってしまえば、それはたぶん会社的な無能力というよりも、世間的な無能力ですらあるだろう。修羅である。

わたしの場合は、身に覚えがないというよりも、うろおぼえのほうが多い。歌の歌詞などもいつもうろ覚え。「なんだか、こんな歌があったよね? マイクロバスに乗っています♩ どんどん道が狭いけど♩ うしろへどん♩ ごっつんこ、どん♩ 後ろの人は~ はじっこに♩ みたいな歌」と言ったら「それは、大型バスに乗ってます、って歌でしょ。うろおぼえにしても殺傷能力が高すぎるよ」と批判される。身に覚えはあってもうろ覚えすぎることが、わたしの最大の問題かもしれない。